故郷の超克としての「ふるさと」(5)
故郷喪失。ハイデガーは存在者と存在を区別して、存在を忘却している現代人の頽落的な生活に危機感を懐いた。その一つが故郷喪失として現象している。誰にでも生まれ育った故郷がある。私の場合、故郷は岐阜県の多治見だが、既に父も母もなく、そこはもはや「ふるさと」ではない。故郷はあるが「ふるさと」はない。従って、厳密に言えば、ハイデガーの言う故郷喪失は「ふるさと」喪失として理解すべきだろう。故郷が存在者だとすれば、「ふるさと」は存在、すなわち故郷を故郷たらしめる存在の力だ。「ふるさと」を忘却すれば、故郷は故郷でなくなる。私は以前にハウスとホームの区別をしたが、立派な建物(住居)としてのハウスがあっても、そこはもはやホームではない。そうした意味でのホームレスは現代社会に溢れているのではないか。私も例外ではない。一般的な意味でのホームレス、雨露を凌げる場所(ハウス)がない窮状も無視できないが、より重要な問題は「ふるさと」のないホームレスだ。ハウスはお金さえあれば建てられるが、ホームはお金では得られない。ハウスレスは主に政治経済の問題だが、ホームレスは哲学の問題だ。ホーム=「ふるさと」とは何か。一般的な故郷のイメージが農村の田園風景だとすれば、都市に生まれ育った者は生来の故郷喪失者ということになる。もしかしたら都市生活者には農村(山村、漁村も含む)に足を運べば「ふるさと」が見つかるという希望があるかもしれないが、それは幻想にすぎない。大都会は言うに及ばず、今や農村にも「ふるさと」はない。ただ「ふるさと」の痕跡があるだけだ。「ふるさと」は遠きにありて思うもの、そして悲しく歌うものと相場が決まっている。されど私は「帰るところにあるまじや」とは思わない。「遠きみやこで成功するまで故郷には帰れない」という悲壮な決意は単なる感傷にすぎず、それは「ふるさと」の本質とは無関係だ。むしろ、「遠きみやこで一旗揚げて故郷に錦を飾る」というパラダイス志向の発想自体を問題にすべきだろう。「ふるさと」は依然としてアルカディアとパラダイスとの間で揺れ動いている。