同化と異化(6)
ここまで「同化は悪、異化は善」という論調で思耕してきたが、当然異化も悪をもたらすことがある。異化に固執して、徒に分断を深める場合だ。因みに、キング牧師はその公民権運動において人種差別と闘ったが、より厳密には「人種隔離」による差別と闘ったと言えよう。すなわち、白人と黒人を分離すること、それ自体が差別の原点なのだ。しかし、善良なる白人市民の多くはそう考えなかった。むしろ、分離が平穏な市民生活の基本だと信じた。敬虔なクリスチャンであればあるほど、分離の正当性を主張したように思われる。確かに、分離は平和をもたらす。同じものの社会に波風は立たず、異なるものとは交わるべきではない。しかし、分離の正当性は本当に成り立つのか。「分離すれど平等」とは言うものの、分離による平等は欺瞞でしかない。繰り返しになるが、分離すること自体が差別を生み出すからだ。とは言え、「学校の能力別クラスは間違っていない」という反論があるに違いない。人の能力に格差があるのは厳然たる事実だ。これは勉強に限らず、運動についても言えるだろう。オリンピックに出場するレヴェルの選手と一般選手とは分離して練習するのが双方にとって効果的だ。もとより人種や民族の差異は能力に関するものではないが、分離の正当性については一理ある。そう言わざるを得ない。たとい差異に基づく格差が悪だとしても、分離は必要悪だ。実際、コスパとかタイパが重視される現代社会においては、分離こそが社会を円滑に回していく。健常者と障害者もそれぞれの生活空間を分離した方がいい。バリアフリーなどと言うが、元々バリアがあるのが現実なのだ。障害者もバリアの内で生活した方が安心安全ではないか。このように分離の正当性と社会の効率性は密接に絡み合っている。私はそこに異化の堕落した形態を見出す。では、同化も異化も悪だとすれば、理想の社会は如何にして実現されるのか。社会の効率性を犠牲にしてでも分離の正当性を超克する道はあるのか。