理想主義に徹する覚悟(8)
直線には始まりと終わりがあるべきだ。始まりも終わりもない無限の直線は恐怖でしかない。悪無限の直線は絶望であり、始まりと終わりのある直線(線分)、すなわち生から死に至る直線上に希望が生まれる。とは言え、生と死にも絶望がある。生きることの苦悩と死ぬことの不安。どちらも根源的にはゾーエーに関するものだが、実存的な絶望はビオスの次元にある。言わば食い詰めて死ぬしかない窮境の絶望と夢の挫折による絶望だ。前者を欠乏のニヒリズム、後者を過剰のニヒリズムと言ってもいい。因みに、新しき村の精神はその第一として「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする」とあるが、そこに謳われている「天命の全う」を肉体の糧によるゾーエーの充足、「自我の完全な成長」を魂の糧によるビオスの充実と理解することができる。言うまでもなく、「天命の全う」は容易なことではない。病気や事故、更には戦争や災害で人生の強制終了を余儀なくされる人は少なくない。従って、全ての人が等しく「天命の全う」できる社会の実現が水平革命の課題となる。しかし、その革命が成就しても、未だ「自我の完全な成長」という課題がある。それは取り敢えず、それぞれの人の個人的な夢の実現という形を取るに違いない。勿論、全ての夢が叶うわけではない。むしろ、挫折する人の方が大半だろう。その挫折の形も様々だが、例えばオリンピックのマラソン選手になるという夢が足の故障で挫折を余儀なくされる場合、その人は自らのビオスを如何にして充実させるのか。総じてゾーエーは健康で「天命の全う」に全く支障がないとしても、生き甲斐であるマラソン選手として生きられない人生(ビオス)にどんな意味があるのか。ビオスの充実は諦めて、ゾーエーの充実だけで満足すべきか。あるいは様々な娯楽の享受を以てビオスの充実とすべきか。それらを妥協と決めつける資格は誰にもないが、私はビオスの真の充実には理想が不可欠だと考えている。と言うより、夢の実現は素晴らしいものの、それだけではビオスは真に充実しない。この点については更なる議論を要するが、もとより私にはそれぞれの夢を実現させた成功者の幸福を否定するつもりはない。確かに、そうした幸福もビオスの充実ではある。しかし、真の充実ではない。ゾーエーの充足(健康)という幸福、それを基本としたビオスの充実(夢の実現)という幸福。二つの幸福は水平の次元で展開するが、そこでは未だ人は人間になってはいない。「人が人間になる」という理想こそビオスの真の充実であり、そのドラマは垂直の次元を必要とする。