補足:発掘と追求 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

補足:発掘と追求

「かく在る・かく在った」という事実を歴史の古層から発掘する経験学と「かく在らねばならぬ」というイデアを追求する規範学との対比において、私は古典文献学におけるヴィラモーヴィッツ=メレンドルフとニーチェとの関係を連想する。当時の権威であったヴィラモーヴィッツ=メレンドルフは新進気鋭のニーチェの『悲劇の誕生』を読んで、「こんなものを書く奴は学者としては死んだも同然だ」と吐き捨てたと言われている。何故か。ヴィラモーヴィッツ=メレンドルフは皮肉を込めて『悲劇の誕生』を「未来の文献学」と揶揄したが、彼の信ずる学問の未来には「かく在らねばならぬ」という主観性は余計なもの(在ってはならぬもの)でしかなかったからだ。確かに、ランケ以降、歴史学の基本は「過去を本当に起きたように(wie es eigentlich gewesen)記述すること」にあると見做されてきた。従って、その記述には記述者の主観性が一切混じってはならぬ。そうした実証主義的な姿勢こそが学者の本分に他ならない。しかし、本当にそうか。私は一度も学者であったことがないので何も言う資格はないが、物自体と同様に「過去自体」なるものもあり得ないのではないか。過去を現代に甦らせようとすれば、否応なくそこには主観性が入り込む。さりとて恣意的に過去が自分(現代人)の都合に合わせて改竄されることを許容するわけではない。そこには可能な限りの客観性(実証性)が不可欠だ。けれども、その事実を踏まえた上で、究極的には「かく在らねばならぬ」というヴィジョンが要請されるのではないか。ここにも古典主義(Urbild)とロマン主義(Vorbild)が相即しなけれならぬ所以が見出される。