独立と連帯(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

独立と連帯(9)

今年も卒業式の季節が巡ってきた。そして、恒例行事のように「日の丸・君が代」を巡る軋轢も報じられている。私はいつも複雑な思いに囚われる。もとより「日の丸・君が代」に限らず、政府が国民に何かを強要することには大きな問題がある。たとい建前上は強要でなくても、巧妙に同調圧力をかけてくることには徹底的に抵抗したい。さりとて「日の丸・君が代」を拒否することで、恰も自らの独立を証明したかのように短絡している教師や生徒にも問題を感じる。それが真の抵抗なのか。「私の独立した存在理由もしくはアイデンティティは決して国家権力に束縛されるものではない」と主張するのなら、「日本人であること」は何を意味するのか。ちなみに先日、外国人の血を引く或る生徒の「自分のルーツは日本以外にあるので君が代は歌いたくない」という言葉を目にしたが、ルーツをUrbildと解するならば、この生徒の実存のUrbildは日本とは無縁だということになる。「今はグローバル化の時代なのに、君が代に拘る日本は時代遅れだ」というような言葉もあったが、グローバル化とはUrbildの忘却であろうか。私はこの生徒の国籍を知らない。日本国籍を有するのか、それとも外国籍で日本には単に長期滞在しているだけなのか。後者であれば特に問題はないが、「日本人であること」の深い自覚において君が代を拒否するのなら、そこには大きな問題が生じてくる。いや、君が代並びに天皇を拒否したいのなら、それでもいい。日本国憲法には「天皇は日本の象徴」と記されているが、それは国民の総意で撤回することは可能だろう。問題は天皇を拒否した後の「日本人であること」のUrbildにある。極端な話、天皇を拒否し、日本語も廃止して事実上の国際語と化している英語を採用し、米食をやめた人をなお「日本人」と言えるのか。あるいは「日本人」というナショナリティを超えて、「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目のない」インターナショナルな「国際人」になることがグローバル化時代に相応しい進化であろうか。そうした多様性に基づく進化に「日本人」のVorbildがあると言うならば、少なくとも私はそんな「日本人」にはなりたくない。果たして私の思耕は致命的に右傾化しているのであろうか。