独立と連帯(2) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

独立と連帯(2)

かなり昔に観たドラマにこんな場面があった。戦後に生き残った特攻隊崩れの老人が、盛り場でバカ騒ぎをしている若者たちを見て吐き捨てるように呟く。「こんな奴等のために俺たちは戦ったのか。だとしたら、散華など意味はない。犬死だ。」山田太一が書きそうなセリフだが、定かではない。ただ、この老人に深く共感したことだけは覚えている。私は若者が嫌いだった。自分自身が若者であった頃から嫌いだった。若さは眩しかったが、その浪費には耐えられなかった。結局、自己嫌悪だったのだろう。さりとて、特攻隊の散華に「若さの有効活用」があったとは思えない。思いたかったが、どうしても思えなかった。そして、一つの問いを得た。生の完全燃焼は如何にして実現するか。もはや若さは問題ではなくなっていた。若さによる生の燃焼など高が知れている。どんなに華やかでも、所詮、刹那的な燃焼にすぎない。私はあくまでも生の完全燃焼を求めた。それは生の私的領域と公的領域が逆対応する接点においてのみ実現する。滅私奉公など見当違いも甚だしい。だから、独立と連帯が問題になる。それにしても生の完全燃焼は贅沢な問題であろうか。完全燃焼はおろか、不完全燃焼を余儀なくされている人々、更には燃焼すること自体が危ぶまれている人々が存在する。「生きてるだけで丸儲け」とは明石家さんまの至言だが、そこにも確かに「本当のこと」がある。しかし、私は敢えて別の一歩を踏み出す。