詩作としてのユートピア(6)
何というタイミングであろうか。昨日の夕刻、石川県に大きな地震があり、日本中の正月気分が一気に吹き飛んだ。先述したように、私は朝から元日を意識しない普段通りの生活に努めていた。雑煮ではなく毎日食べているコーンフレークと牛乳で朝食を済ませ、 例年のテレビの正月番組(元日の日本各地の様子を中継しながら漫才やコントを織り込んでいくバラエティ)も一切観なかった。あくまでも三百六十六分の一としての一日を生きようとしていた。おそらく、そこには正月気分を味わいたくても味わえぬ私の自己正当化(ルサンチマン)も多分に含まれていたと思われる。そんな私の姑息な思いを罰するかのように、天は無理矢理に元日を「特別な日」にしてしまった。日本中の浮かれた気分を一瞬で凍らせる無惨な方法で。テレビの楽しい正月番組は全て中断され、悲惨な災害現場を報じるニュース番組に切り替わった。一見、無慈悲とも思える天の配剤ではあるが、そこには安吾の言う「戦争の破壊の巨大な愛情」と通底するものがある。正月気分を能天気に楽しんでいた者も、正月気分を味わえずに暗く沈んでいた者も、皆等しく被災地の人々の不幸を憂えるという一点において一つになるからだ。ただし、所謂「災害ユートピア」をもたらすものは自然の情であってPoesieではない。被災地に必要とされるものは取り敢えず救援物資であり、非日常を日常に戻す人々の努力であろう。詩作としてのユートピアは災害ユートピアが自然消滅した後にのみ問題となる。