詩作としてのユートピア(3)
ユートピアを求める生活は地に足がついていないと人は言う。この地上の「どこにもない場」を求めるのだから、それは致し方ない。むしろ、当然のことだ。しかし、性懲りもなく誤解を恐れずに言えば、私は地に足をつけるべきではないと思っている。確かに、地に足のついた生活は立派だ。大地をしっかりと踏みしめた誠実な生き方は尊い。非難される謂れはない。しかし、本当にそうか。その立派さが、尊さが人間の理想を限界づけているのではないか。少なくとも、詩作(世界のロマン化)は地に足のついた生活をディコンストラクトする。地に足をつけていては詩作などできないからだ。ここに詩作が空想と誤解(同一視)される最大の理由がある。ただし、ディコンストラクションが「解体—再構築」と和訳されるように、それは単なる破壊ではない。世界のロマン化は地に足のついた生活からの実存的飛躍を試みた後、再びそれを反復(受け取り直す=wiederholen)する。こうした反復の経験を拒否して地に足のついた生活にずっと固執するならば、どんなに立派で尊い生活もいずれ必ず腐敗し始める。「家庭の幸福は諸悪の本」という言葉の真意もそこに見出される。とは言え、詩作と空想を現実に区別することは容易なことではない。詩人と言えば、依然として地に足のつかぬフラフラと浮ついた生活をしている夢想家と見做されるのが常識だろう。また、「地に足のついた生活に根差した詩(生活詩)もあるではないか」という反論も想定される。中野重治は「お前ば歌ふな」と歌ったが、その「恥辱の底から勇気をくみ来る歌」は我々を何処へ導くか。私はやはり「どこにもない場」だと思わざるを得ない。