「下山」のその先としての祝祭共働(4)
アーレントは「カント政治哲学講義」の第四講末尾で次のように述べている。
「Human species=Mankind=自然の一部=「歴史」への服従、つまり自然の計略への服従=「目的」の理念の下で、目的論的判断力の下で考察される。――『判断力批判』第二部。
Man=合理的存在者、人間が自分自身に与える実践理性の諸法則への服従、自律的。霊の国・英知的存在者の国へ属するところの目的自体――『実践理性批判』及び『純粋理性批判』。
Men=地上の被造物として、諸々の共同体の中に生き、常識・共通感覚・共同体感覚を賦与されている。すなわち自律的ではなく、思考のためにさえ相互の仲間を必要とする。――『判断力批判』第一部、美学的判断力。」
僭越ながら、私の「ヒト・人・人間」の区別はアーレントの「Mankind・Man・Men」の区別に準じている。ヒトは他のイキモノと同様に生存競争に駆り立てられる。しかし、人には単なる生存競争以上の生の次元が開かれる。例えば、被災地では生存するために一個のおにぎりを奪い合うのが自然(当然)な限界状況でも、人は一個のおにぎりを他者と分け合うことができる。ただし、そこに生存競争の自然とは異なる相互扶助の自然を見出すとしても、残念ながらそれは持続しない。何故か。人は生存競争とは質的に異なる競争に駆り立てられているからだ。それが「親の願い」から始まる承認欲求に基づく競争だと私は考えている。神話的に言えば、人の競争への意志はバベルの塔の建設に辿り着く。周知のように、古代の塔は神によって打ち壊されたが、バベルの塔はその後もずっと再建が試み続けられ、今や人新世の頂上を極めようとしているのではないか。この現代の塔は再び神によって打ち壊されるべきか。たといそうだとしても、我々には未だ「人間の次元」を切り拓くという仕事が残されている。