「下山」のその先としての祝祭共働 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

「下山」のその先としての祝祭共働

「下山」とは要するに競争の放棄だ。人は幼い頃から競争を強いられている。しかし、誰が競争を強いるのか。親の存在は無視できないが、教育バカな親でない限り、お稽古事やお受験で我が子に苛烈な競争を強いることはないだろう。少なくとも私の親はそれほど教育熱心ではなかったが、私は自然に「親に褒められるような子」になりたいと思っていた。ここで問題になるのは「親はどんな子を褒めるのか」ということだ。それは「親の願い」と言ってもいい。星一徹は我が子・飛雄馬に「巨人の星」になることを願ったが、飛雄馬は基本的にその願いに忠実でありながら常に反撥もしてきた。そのディレンマが顕著になるのはオズマに「お前は野球ロボットだ」と指摘された時だ。それ以後、飛雄馬の闘いは「親の願い」を満たすための競争から「親の存在」を乗り越えるための一徹との競争へと転換した。尤も、こうした一徹と飛雄馬の親子関係は特異なものかもしれないが、子は常に「親の願い」を意識して競争に駆り立てられるのではないか。競争はあらゆるイキモノの本能とも言えるが、人には単なる生存競争以上の何かがあるような気がしてならない。深く考えれば、エディプスコンプレックスだのエレクトラコンプレックスだのという複雑な様相を呈するが、取り敢えず「親からの承認」(親に認められたい!)を求める競争は不可避だと思われる。「親の願い」に忠実であるにせよ、反撥するにせよ、ドラマはそこから始まる。