補足:祝祭共働と下山思想(3) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

補足:祝祭共働と下山思想(3)

一、ゾーエーとビオス

鈴木氏は、「ビオスとは一回きりの個体の命。ゾーエーとは親から子へとずっと受け継がれていく命」という生物学者・本川達雄氏の区別に基づいて、「ゾーエーという概念は、自分がその一員である生物種のいわば命のリレー的連続性を指すことばであり、ビオスとは長い命の鎖の一つの環に過ぎない」と述べている。要するに、ビオスが自我中心の個的生命であるのに対し、ゾーエーはそうした個的生命の根源であるイキモノ全体の生命ということだ。こうした区別に即して、ビオス中心の近代的世界観からゾーエー中心の世界観への「下山」が主張されるわけだが、私には違和感がある。と言うのも、松本氏も追記で言及されているが、私はゾーエーとビオスの区別をアーレントやアガンベンから学んだからだ。アガンベンによれば、ゾーエーが生物・動物として生きている剥き出しの生であるのに対し、ビオスは社会的政治的生を意味し、ポリス(公的領域)を担う市民の活動が重視される。従って、この区別に基づけば、近代的世界はゾーエーの充足のみにうつつを抜かし、ビオスの領域を忘れ去った大衆社会ということになる。もとより古典ギリシア語に通じていない私にゾーエーとビオスの区別について論じる能力はないが、もしゾーエー優位の世界観に生きるならば、例えばウクライナの人たちは「正義の戦争」よりもロシアへの降伏による「不正義の平和」を選んだのではないか。ビオスとはウクライナの正義、ウクライナ人であることの誇りが問題にされる領域であり、それは「生命尊重以上の価値」が生まれる場でもある。勿論、徒にイノチ(ゾーエー)を粗末にするべきではないが、キルケゴールの言葉を借りれば、人には「そのために生きかつ死ぬことができるような主体的真理」が必要不可欠だと思われる。そして、その実存的必要がアルカディアを失楽園と化し、同時にパラダイスへの移行を促すことになる。「殺されても死なないもの」とは実篤の言葉だが、たといイノチ(ゾーエー)が危機に瀕することになっても、人には「イノチを賭けてなさねばならぬこと」がある。それがビオスだ。正に今、ウクライナの人たちはイノチ(ゾーエー)を賭けてウクライナの正義という理想(ビオス)を貫こうとしている。鈴木氏のように、「個的生命としてのビオスが滅んでも、根源的(普遍的)イノチとしてのゾーエーは永久に続く」と考えることもできるが、私はあくまでもビオスにおける理想実現を目指したい。ゾーエー優位のアルカディアか、ビオス優位のパラダイスか――この相克はアルカディアへの「下山」だけでは終わらない。