補足:祝祭共働と下山思想(1)
今後も、おそらく死を迎えるまで、私は祝祭共働の次元を切り拓く可能性を求め続ける。そのことに一片の迷いもない。しかし、その拠点を引き続き「新しき村」に見定めていくかどうかはわからない。それは偏に私が「新しき村」に込めている「人間の究極的理想」にどれだけの人が共鳴してくれるかに依るだろう。誰も共鳴してくれなければ、私は独りよがりの理想を求め続けた一人のバカとして朽ち果てていくだけのことだ。それでもいいと覚悟は決めているが、そう腹を括る前に、できるだけのことは全てしておきたいと思う。そこで取り敢えず、最近拝読した松本輝夫著『言語学者、鈴木孝夫が我らに遺せしこと』に即して、「新しき村」を拠点とする意味について数回に分けて思耕を試みる。それは祝祭共働と下山思想の差異についての思耕に他ならない。
祝祭共働と下山思想
人新世の破滅的現状において、心ある人は「このままでは駄目だ!」と叫んでいる。その偉大な先駆者が言語学者の鈴木孝夫氏であった。鈴木氏によれば、その元凶は西欧型・断絶型世界観であり、それはルネサンスや産業革命以来、人類社会全体を大きく発展させてきた近代的世界観でもある。確かに、この世界観は経済的に豊かな生活を人々にもたらした。しかし、その反面、人間中心の経済第一主義は深刻な環境破壊をもたらし、近代以降の繁栄も致命的ピークに達している。このまま従来通りの経済的発展を続ければ、間違いなく人類は破滅する。いや、人類だけではない。地球そのものが破滅してしまうだろう。このような地球規模の危機に直面して、鈴木氏は世界を人間の目だけで見るのをやめる「地救(球)原理」を提唱する。この原理に松本氏は「世界の映像を裏返さないかぎり永久に現実を裏返すことはできない。イメージから先に変れ!」という谷川雁の言葉を反響させているが、近代的世界をめぐるイメージのラディカルな変革こそが要請されている。それが「下山」のイメージだ。「人類が経済的繁栄という幸福の頂上を極める」というのが近代主義のイメージだとすれば、その頂上からの「下山」が破滅的現実を裏返すイメージということになる。こうした「下山」のイメージは五木寛之氏も共有しているとのことだが、問題は「下山」の後にあると私は考えている。松本氏によれば、五木氏には「下山」して出発点に戻った後に次の山頂を目指すという発想があるそうだが、鈴木氏にそのような発想はない。「次の山頂を目指す」などいう能天気な発想は論外としても、「下山」それ自体が現代に生きる我々の唯一の活路なのか。もしそうなら、私には少々異論がある。率直に言って、「下山」というイメージは中途半端だと思わざるを得ない。その点について、「近代の超克」との関連で私なりに考えてみたい。