「されど仲よき」の研究・覚書
もしかしたら「君は君、我は我也」の時点で立ち止まるべきなのかもしれない。言い換えれば、「君は君、我は我也」という個人主義の世界で完結できれば、それに越したことはないのだ。しかし、君と我が没交渉でいるよりも、君と我が協力した方が効率的だし生産性も上がり、結果的に君と我の双方にとって得になる場合もある。また君と我が協力しなければできないこともある。ただし、このようにして「されど仲よき」が要請されたとしても、アクセントはあくまでも「君は君、我は我也」にあるだろう。すなわち、「君は君、我は我也」の世界がより円滑に機能する限りにおいてのみ「されど仲よき」が要請されるのだ。逆に言えば、「されど仲よき」が君にとっても我にとっても非生産的で意味のないものであるならば、「君は君、我は我也」を踏み越えていく必然性などはない。だとすれば、「君は君、我は我也」はそれ自体で一つのパラダイス足り得るのであり、「されど仲よき」は畢竟二次的なものにすぎない。むしろ「されど仲よき」にアクセントがおかれると、世界は全体主義的に歪む危険性を帯びてくる。従って、触らぬ神に祟りなし、「君は君、我は我也」の世界に可能な限り留まり、必要に応じて「されど仲よき」の世界に足を踏み入れるのが賢明な生き方になる。しかし祝祭共働態はこうした賢明な生き方に真向から対立する。