敗北の六月(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

敗北の六月(10)

周知のように、アメリカの公民権運動は一人の黒人女性がバスの白人優先席に座ったことから始まりました。当時のアメリカには人種分離法(ジム・クロウ法)なる悪法があり、彼女はそれを十分承知した上で敢えてその法律違反に及んだのです。実に勇敢な女性だと思います。しかし、人種分離法は本当に悪法だったのでしょうか。厳密に言えば、人種分離と人種差別は異なります。勿論、人種分離の名目で黒人(を筆頭とする全ての有色人種)が差別されていたことは厳然たる事実であり、実質的には「人種分離=人種差別」だったでしょう。しかし、人種分離を差別なく行うことは原理的に可能であり、むしろその方が無駄な争いを回避できるのではないでしょうか。すなわち、一台のバスに白人優先席のみがあって黒人優先席がないから差別になるのであり、初めから白人専用のバスと黒人専用のバスを分離して運行すれば軋轢が生じる余地などなくなるのです。そもそも白人と黒人は身体的にも文化的にも異なり、その間に壁が存在することは極めて自然なことです。その上で、壁にドアを設置すれば、互いの長所を適宜学び合う交流もでき、黒人は白人と対等に発展していけるでしょう。かくして壁は快適な市民生活に不可欠なものであり、人種分離法も一概に悪法だとは言えないという論理が成立するのです。


しかし乍ら、マーティン・ルーサー・キングはこうした人種分離の論理に真向から戦いを挑み、一つの夢を語りました。言うまでもなく、それは「かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫たちが兄弟愛で結ばれたテーブル(the table of brotherhood)に共に座すことができるようになる夢」です。キングは端的に「我々は兄弟(姉妹)として共に生きることを学ばねばならない、さもなければ愚者として共に滅びるに違いない」とも語っていますが、これは正に新しき村の精神に基く理想でもあります。しかし、我々は本当に全ての人間を兄弟姉妹として共に生きられるでしょうか。少なくとも、この文脈における共生の理想が自然に反するものであることは明らかです。その証拠に、人種分離法が廃止になっても、白人街、黒人街、日本人街というように、それぞれの人種・民族は自然に棲み分けて生活するのです。ロシアや中国といった大国が抱える民族問題も煎じ詰めれば民族自決という人間の自然性(自然の情)を抑圧していることに起因しています。従って、あくまでも自然に即して考えるならば、我々はそれぞれの人種や民族に分かれて自分たちだけの共同体を形成すべきであって、それ以上の理想を求める必要はないのです。しかし、それにも拘らず、やはり理想は囁きます。セカイガゼンタイコウフクニナラナイウチハ、コジンノコウフクハアリエナイ。この囁きに耳を傾けたキングが個人の人種や民族を超えた兄弟愛brotherhood(ザメンホフの文脈では人類人主義homaranismo)による共生の夢を語ったことは先述しましたが、そのキングも結局は暗殺されてしまいました。理想を貫いて生きるためには、それ相当の覚悟をしなければなりません。


さて、本日のトップニュースは英国のEU離脱が国民投票の末に決定したことです。かなり僅差の勝負だったようで、この結果だけで英国の理想を問うことなどできませんが、英国民の過半数が理想よりも現実を選んだことは間違いない事実でしょう。我々のこれまでの文脈に即して言えば、英国民はEUの理想によってヨーロッパ中から押し寄せてくる移民たちとの共生よりも英国民だけの幸福を選んだ、ということです。ネット上のニュースによれば、「残留派=高い教育を受けた人、グローバル化の恩恵を受ける人、国際的な経験が豊富な人、一定の高収入がある人、若者層」・「離脱派=労働者階級の一部、それほど教育程度の高くない人、グローバル化の恩恵を受けない人、一部の高齢者」という階級差があるとのことですが、「理想を求める余裕のある人間」が「現実の生活に追われて理想なんか求めている余裕のない人間」に敗れたという構図が浮き上がってきます。正に敗北の六月に相応しい結果だと言えるでしょう。この極めて現実的な結果からどのように生き始めるかは決して英国民だけの問題ではない筈です。