売国奴の「人間らしさ」 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

売国奴の「人間らしさ」

先の戦争において当時の日本のマスコミから「売国奴」と罵倒された女性がいます。反戦エスペランティストの長谷川テル(Verda Majo)です。彼女は日本で中国(厳密には満州国)からの留学生と結婚し、その後中国に渡って抗日放送に従事しました。この事実だけからすれば、彼女は間違いなく祖国に対する裏切者でしょう。しかし、本当にそうでしょうか。これは尾崎秀実や杉原千畝にも言えることですが、こうした人々の日本政府に対する反逆行為は決して日本そのものへの憎悪に基くものではなく、むしろ日本を深く愛するが故に、日本が「人間らしさ」に反することのないように願っての行為だと理解できます。長谷川テルの場合に限って言えば、彼女にとっての日中戦争は単なる日本と中国の争いではなく、あくまでも抑圧者に対する被抑圧者の抵抗運動に他なりません。従って、中国の勝利はアジアにおける全ての被抑圧者の解放を意味したのです。尤も心ある日本人にとっても、先の戦(いくさ)は太平洋戦争と言うよりも大東亜戦争であり、西洋の抑圧から東洋を解放する聖戦でした。その内実が侵略戦争であり、大東亜共栄圏が王道楽土に反する覇道地獄でしかなかったことは日本人として痛恨の極みですが、たとい売国奴と罵られても「人間らしさ」を失わなかった人が少数でもいた事実には慰められます。言うまでもなく、その僅かな事実で日本を正当化するつもりなど全くありませんが、「人間らしさ」にはナショナリズムを超える可能性があることだけは否定できないと思います。


しかし乍ら、ナショナリズムの力は強大であり、「人間らしさ」がそれを現実に超越することは容易なことではありません。殊に「生の充実」の観点からすれば、ナショナリズムほど生を輝かせるものはないでしょう。今年はオリンピック・イヤーで再び多くの国民が自国の選手が他国の選手を打ち負かす姿に熱狂すると思われますが、それは極めて自然な感情です。それを悪として非難抑制することは我々の生活をひどく窮屈なものにしてしまうに違いありません。さりとて、ナショナリズムを手放しで肯定することにも少なからぬ抵抗があります。果たして我々の「人間らしさ」は本当にナショナリズムを超えられるのでしょうか。