非国民の「人間らしさ」 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

非国民の「人間らしさ」

先日、或る信用組合主催の講演会に足を運び、そこそこ著名な政治ジャーナリストの「どうなる日本の政治・経済の行方」と題する話を聴いてきました。しかし演題は名ばかりで、総理大臣時代の中曽根さんは偉かったとか、今も秋田で暮らす母親が如何に苦労して自分を立派に育て上げたかとか、そんな脈絡のない無駄話ばかりで、締め括りの結論としては「これから日本がどうなるか、それは誰にも分からない」という噴飯物でした。このオッサンはかなり保守的な御仁のようで、最近マスコミに叩かれている東京都知事を何故か擁護していたのも笑えましたが、更に安保法案に関連して「集団的自衛権のどこがいけないのか!」と声を張り上げるに至って、私は笑いから一転して考え込まざるを得なくなりました。オッサンはこんなことを言いました。

「私には娘が二人いる。この娘たちが暴漢に襲われたら、私は自分の命を懸けて死に物狂いで彼女たちを守ろうとするだろう。場合によっては暴漢を殺してしまうかもしれない。それに対する刑罰には潔く服する覚悟はできている。しかし、娘たちを守るために暴漢を殺したことを悔いるつもりはない。それが親としての当然なすべきことだからだ」


厳密に言えば、これは個別自衛権に関する話のような気がしますが、それはともかくとして、私が考え込んだのはオッサンが「暴漢の殺害」に何の疑問も抱いていない点です。尤も、「どんな状況であろうと、人を殺すのはよくない」などと主張しようものなら、「キレイゴトを言うな!」と逆に私の方が火ダルマになりそうです。実際、私には娘はおろかヨメさんさえいないものの、自分自身や身近な親しい人が危険に晒されれば、臆病者の私でも、いや臆病者だからこそ窮鼠猫を噛むことになるでしょう。それは極めて自然な反応です。むしろ、隣人が殴られているのに、「暴力はいけない」という真理を貫いて非暴力に徹するのは不自然であり、結果的には暴力を容認することに等しくなります。「やられたらやりかえせ! 暴力には暴力で対抗するしかないのだ。少なくとも非暴力の理想では愛する人を守ることなどできない」――こうした声の方が圧倒的であり、一般大衆もそれを熱烈に支持するのは明白です。


しかし、それにも拘わらず、非暴力の理想は放棄すべきではないと思います。周知のように、非暴力は無抵抗ではありません。むしろ暴力による抵抗以上の力を要する抵抗です。「殴られたら殴り返す抵抗」と「殴られても殴り返さず、ずっと殴られ続ける抵抗」、前者は自然で多くの人に容易に理解されるでしょうが、後者は不自然で逆に多くの人から非難されるでしょう。しかし、後者にこそラディカルな「人間らしさ」があると私は考えます。とは言え、例えば現実に侵略されて戦争が始まった時に非暴力の理想に徹するならば、義憤に駆られた大衆の怒りを買って「非国民!」と罵倒されるに違いありません。然り! 良心的徴兵拒否の場合と同様、ラディカルな「人間らしさ」を追求することは並大抵のことではなく、全ての国民から石を投げられる覚悟が必要になります。とまれ、そんな不自然な苦しみに耐えてまでラディカルに「人間らしさ」を貫こうとする必要があるでしょうか。「やられたらやりかえせ!」という自然な感情に身をゆだねる大衆と共に立ち上る方がどれだけ楽でしょう。困っている人を助けるというような穏やかな「人間らしさ」とは違って、ラディカルな「人間らしさ」は世界を根源から震撼させる理想なのです。