ユートピアとファンタジー(3) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

ユートピアとファンタジー(3)

ファンタジーは「ないものねだり」だと述べましたが、厳密に言えば、この世界に「ない」ものを我々は空想できません。すでに言い古されたことですが、ペガサスはこの世に存在しないものの、馬と翼は存在します。つまり、ファンタジーは無から有を生み出す力ではなく、既存のものを新たに組み合わせる力でしかないのです。言うまでもなく、その新たな組み合わせは理想的なものだけを生み出すとは限りません。例えば、グレゴール・ザムザのような「巨大な虫に変身した人間」という組み合わせは悪夢のファンタジーです。妖怪、魔物の類も同様ですが、それらは容易に妖精、天使へと変換可能であり、ファンタジーの明暗を分けるのは偏に人間の自由意志だと言えます。

さて、ユートピアを我々が究極的な理想を実現する物語だとするならば、それを織り出すファンタジーとは何か。この問いについて思耕する前に、次の二点を確認しておきます。

1. アルカディアは自然に「ある」もので完全に充足する楽園なので、自然に「ない」ものを想像するファンタジーは原則的に必要とされない。尤も、ファンタジー禁止にする必要もないが、ファンタジーはアルカディアの本質に無縁のものだろう。逆説的に解すれば、ファンタジーを全く必要としない純粋アルカディアそのものがファンタジーの産物だと言える。

2. 自然に「ない」もの、更に言えば自分に「ない」ものを求めるファンタジーがパラダイスの本質を成す。つまり、欠乏のニヒリズムを克服するファンタジーがパラダイスを構想する、ということだ。ただし、自然に「ある」ものが否定的な場合(例えば地震などの災害や弱肉強食に基く争いなど)は自然に「ない」状態(災害も争いもない完全平和)を求めるファンタジーがパラダイスの条件となる。

このように原則としてファンタジーを必要としないアルカディアと基本的に欠乏を満たすファンタジーを核とするパラダイスは、我々の抱き得る理想の表裏だと見做すことができます。どちらが表かということに関しては議論が分かれるでしょうが、ファンタジーを基準にすれば、やはりパラダイスが表になるでしょう。と言うのも、純粋アルカディアがもはや失われた楽園でしかない以上、その本質である「無為自然の理想」は自然に「ない」状態であり、実質的には「無為自然の理想」を人工的に求めるファンタジーが必要になるからです。擬似アルカディアがパラダイスの一種(変種)だと解される所以です。

何れにせよ、ファンタジーがその本領を発揮すべき舞台がパラダイスだとすれば、ユートピアの出る幕などあるのでしょうか。おそらく、パラダイスの延長線上には「どこにもない」でしょう。実際、我々が理想に辿り着くドラマは古代の神話から現代のSFファンタジーまで、そのパターンはほぼ出尽くした感があります。と言うより、現代の物語は古代の神話伝説の焼き直しにすぎない場合が殆どです。果たして、真の意味における「新しき物語」は可能でしょうか。もし可能だとすれば、それこそがユートピアのドラマになりますが、その「新しき物語」を切実に必要としている人は極めて少数だと思われます。かく言う私自身、ユートピアの必要性については始終揺れ動いています。もとよりパラダイスで事足りればそれでいいのです。本当に事足りるならば……。