善人の村
私は新しき村の悪口ばかり書いているように思われるかもしれません。しかし、それは違います。新しき村に関心をもつ方がこの便りを読まれて不快になられるとしたら残念に思いますが、私は村の批判こそすれ、決して村の悪口を言っているつもりはないのです。そのことを少し視点を変えて述べてみたいと思います。
私は先の便りで「新しき村にも癌の如き存在がいる」と書きましたが、それはあくまでも私の求める「ユートピア」の観点からのことであって、村人の殆どは「馬鹿一」のような善人ばかりです。例えば、昨日こんなことがありました。午後の労働に出ようとした時、私はうっかり車を脱輪してしまったのです。雨の中、途方に暮れていると、K氏が助けに来てくれました。水田係の彼は雨のために午後は休みだったのですが、私の困っている様子を自室から察して出て来てくれたのです。もしかしたら昼寝の最中だったかもしれません。エゴイストの私なら、おそらく助けを求めてくるまで、知らぬ振りをきめこんでいたでしょう。しかし彼はすぐに私を助けに来てくれて、わざわざ他の車をまわしてきて私の車を引っ張り上げてくれたのです。こうしたことがごく自然にできるのが村人なのです。
しかし乍ら、私は思うのです。今の新しき村がK氏のような「善人の村」であっても、それだけでは「新しき村の実現」にはなりません。そもそも今の村はかつての養鶏の成功による蓄えを食い潰して成り立っているにすぎず、この「善人の村」が早晩経済的に破綻することは目に見えています。それに「善人の村」なら世界各地に見出され、何も新しき村に限られたものではないでしょう。新しき村の使命(もしくは存在理由)は、そうした「善人の村」が経済的にも成立する「新たなシステム」を先駆的に創造していくことにこそあるのではないでしょうか。その意味において、新たなプロジェクトに挑戦することなく、ただ徒に「善人の村」の維持にのみ努めることは結果的に「新しき村」の否定に等しいと思います。私が繰り返し批判しているのは、正にこの点に他なりません。