新しき村は修道院にあらず! | 新・ユートピア数歩手前からの便り

新しき村は修道院にあらず!

昨日の便りで「新しき村にも癌の如き存在がいる」と書きましたが、これは誤解を招く表現だったかもしれません。と言うのも、今の村にヒトラーのような存在がいるわけではないからです。もしそのような独裁者の存在が村の問題ならば、話はむしろ簡単で、私も戦いやすいでしょう。私の言う「癌の如き存在」とは、「新しき村本来の使命を忘れて、現状維持にのみ努める事勿れ主義の人」に他なりません。


尤も、そうした「穏健派」から見れば、私の方が「癌の如き存在」なのかもしれません。しかし、繰り返し申し上げているように、私は自分の求めている「新しき村」のみが絶対的なものだとは思っていません。勿論、私なりの確信はありますが、「新しき村」の真にあるべき姿をめぐる議論こそ私の望んでいるものなのです。しかし残念乍ら、そうした議論ができる雰囲気は今の村内にはありません。むしろ一部の村外会員の間に、そうした機運が高まりつつあるような気がしています。


何れにせよ、私が最も問題だと思っているのは、村の生活者が個々の生活に閉じこもってしまいがちである点です。「義務労働さえしっかり果たしていれば、あとは個人の勝手だろう」と思われるかもしれませんが、それでは村の外のサラリーマン生活と変わらないでしょう。言うまでもなく、サラリーマン生活が悪いわけではありませんが、それは明らかに「新しき村の生活」とは根源的に異なります。確かに「新しき村の生活」の本質は「自己を生かすこと」にありますが、それは決して「個人の生活を中心に生きること」に終始するものではありません。その意味において、世俗的に個人生活を享楽することは言うに及ばず、個人生活の純化である修道院や禅刹での生活も「新しき村の生活」ではないと私は考えています。それらは「新しき村の生活」の往相にすぎません。