実体と関係態
単に「一所懸命に働く」ということだけであれば、新しき村の外でもそれを実行している人はたくさんいるでしょう。むしろ、公益法人として様々な優遇措置を受けている村よりも外の方が、更に一所懸命に働かざるを得ぬ状況にあると言えます。重要なことは、一体何のために一所懸命に働くか、ということに他なりません。
私自身は、「一所懸命に働く」ことがそのまま「自己を生かす」ことにつながるような社会を実現したいと思っています。すなわち、「自己を生かす」ことをするために嫌々「一所懸命に働く」のではなく、その両者が統合されるような社会です。それが「祝祭共働態」なのですが、それを実現するためには如何にすべきでしょうか。
私は「卒啄同時」とか「入村ではなく参画」とか勝手なことを言っていますが、現実に新しき村を共働態へと変革することは並大抵のことではありません。殆ど不可能だと言ってもいいでしょう。そもそも現に目に見える形で実在する新しき村は「実体としての共同体」以外の何ものでもなく、それを「関係態としての共働態」へと変革することは実体としての村を無に帰すること(つまり、事実上の村がなくなるということ)を意味します。論理的にはそうならざるを得ません。しかしそれは、例えばスクリーンなしにフィルムを上映しようとするに等しく、現時点では全く非現実的なことです。(現時点では、と強調するのは、私は「実体なき関係態」というものの可能性を遠い将来に展望しているからです。)
それ故、私は最近、新しき村は共同体のままでいいのではないか、と思い始めています。と言うのも、今の段階では、実体なしに関係態を築くことなどできないからです。つまり、先ず共同体としての村があり、それに各自が主体的に関係することによってのみ共働態は実現する、ということです。実体が関係態に先立つ――これが現実だと思います。