善きサマリア人の譬え
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカによる福音書)
私は昨日の便りで、今の村では単に「一所懸命に働いている」だけでは駄目だ、と述べましたが、おそらくその真意は正確に伝わっていないでしょう。勿論、その責任は私自身にあります。「一所懸命に働いている」ことの問題性をうまく表現できないのです。
それは単に経済性の問題ではありません。すなわち、今の状況で一所懸命に働いても村を経済的に豊かにすることなどできない、ということだけではないのです。確かに村の経済には根本的な構造改革が必要だと思います。しかし今ここで問題にしたいことは、例えば草刈に精を出すことには意味がない、ということではないのです。
私は「自分は草刈を含めた農作業だけに専念するつもりはない」と言う時、冒頭に引用した「善きサマリア人の譬え」を思い出します。村に雑草が生い茂る。そして村の景観を美しく保つためには、誰かが草刈をしなければならない。――そうした状況において、結果的に草刈をしないのは、追いはぎに襲われた人を見て見ぬ振りをする祭司やレビ人に等しいのではないか。少なくとも、自分は「善きサマリア人」ではない、と思うのです。
しかし乍ら、私は次のようなことを考えます。確かに目の前に苦しんでいる人がいれば、とにかく直ちにその人を助けようとすべきです。それは人間として当然のことでしょう。しかし、そうした次元とは別に、その「苦しみ」を根源的に解決するためには、敢えてその現場を離れることも必要になると思うのです。ここには私がたびたび問題にしている「研究と実践」のディレンマがあります。
例えば、或る病気に苦しんでいる人を救う実践とその病気についての研究です。勿論、最終的には研究と実践は統合されますが、その過渡期において研究者は実践の現場から離れることを余儀なくされるでしょう。尤も、これはあくまでも日常の生き方の問題であって、災害などの非常時には研究者といえども現場に駆けつけると思われます。私が言いたいのは、研究者と実践者ではその立場に質的な違いがある、ということです。
「善きサマリア人」は明らかに実践者です。私もそのような実践者になりたいと思っています。しかし、特に「ユートピアの実現」という課題について言えば、真の実践を行うためには研究者でもなければなりません。すなわち、医療の現場とは異なり、「ユートピアの実現」の現場では研究と実践は同時に行なわれねばならぬ、と思うのです。どうもうまくまとまりませんが、時間がないので本日はこれくらいにしておきます。