共同体と共働態
私の出発点は実篤ではありません。つまり実篤への心酔から新しき村に来たのではないのです。その意味において、私の「ユートピア追求」は「新しき村」に先立つと言えるでしょう。こんなことを言えば、なにか実篤と新しき村を軽視しているように聞こえるかもしれませんが、決してそうではありません。
心酔こそしていませんが、私は実篤の「新しき村」の構想に深く共鳴しています。実際、私の知る範囲では、様々なユートピアの試みがある中で、「新しき村」が最も「真のユートピア」に近いと思っています。勿論、近いと言っても、未だ随分と距離はありますが、少なくとも私の理想とする「個即全・全即個」の共働態を実現する可能性は充分あるでしょう。その判断の根拠は、「強制はしない」もしくは「個を尊重する」という村の基本的な雰囲気です。
しかし乍ら、その雰囲気が今徐々に失われつつあるように思われます。そして、その代わりに、農本主義という一元的な理念を押し通そうという動きが出てきたような気がします。尤も、私は農本主義という理念自体について批判するつもりはありません。と言うのも、村には様々な理念があっていいと思うからです。それ故、農本主義的な理念によって私を非難する人がいても、私は基本的にそれを甘受してきました。しかし、その理念で一元的に村を支配しようとするなら、話は別です。私は到底黙ってはいられません。
そもそも私が求める「真のユートピア」は一元的な理念を中心とした共同体ではなく、あくまでも多元的な理念が掛け合わされていく共働態なのです。確かに現在の村は一元的な農業共同体だと言わざるを得ません。しかし、それは決して実篤が望んだ「新しき村」の究極的な姿ではないと私は確信しています。その意味において、私は個々の人間がそれぞれの方法で「自己を生かす」ことのできる場を実現したいのです。言うまでもなく、今の村には実に多くの問題が山積していますが、「多元的な共働態」という理念さえ皆に理解されれば、自ずと道は開けてくるように思います。楽観的すぎるでしょうか。