歪んだ「需要―供給関係」
昨日の便りで述べた戦いを全うできなかった理由は、私の忍耐不足ということもさること乍ら、その「歪んだ学校」を超える「真の学びの場」をつくる力が私になかったからです。また、私は「高校卒業資格」を金で売るような学校のあり方を批判したわけですが、そういう学校を必要とする人もいたということもあります。つまり、真の意味での「高校卒業資格」に値する学力を身につけさせる教育よりも、単に三年間在籍し、形式だけの試験で言わばトコロテン式に「高校卒業資格」が得られるシステムの方を望む生徒や親が少なからずいたということです。
確かに、進学するにしても就職するにしても、「高校卒業資格」があった方が有利です。その意味では、生徒や親が必要としているのは「高校卒業資格」であって、真の教育ではないと言えるでしょう。そして、その「高校卒業資格」を学力の低い不登校生でも簡単に手に入れることができるならば、それに優ることはありません。そこに「ビジネス」が成立する要因もあるでしょう。すなわち「高校卒業資格」の需要があり、それを簡単に供給するビジネスがある、ということです。
勿論、私はそうしたビジネスを批判し、できれば根絶したいと思っています。しかし、歪んだ需要がある限り、歪んだビジネスは存在し続けるでしょう。ここには、先の便りで述べた「自覚的な消費者」と「自覚的な生産者」の問題があります。言い換えれば、需要と供給は相即しており、その正しい「需要―供給関係」は消費者と生産者のそれぞれの自覚によって成立するということです。
何れにせよ、かつての私は歪んだ「需要―供給関係」を批判するものの、正しい需要に即した正しい供給(真の学びの場)をすることができませんでした。すなわち、単なる「高校卒業資格」ではなく、「人間として真に自立する力」(学力も含む)を求めている生徒と親の需要に対して無力だったのです。そして、そうした「自立する力」を育む道を摸索した結果、私は今、新しき村にいるのです。
しかし乍ら、新しき村にさえ、歪んだ「需要―供給関係」が見出されます。それは言わば農本主義的な「需要―供給関係」です。私はそれを一貫して批判してきましたが、それを必要とし、それこそが正しい「新しき村の生活」だと確信している人もいます。この現実において如何に行動すべきかが今の私の課題に他なりません。