中途半端な実践者 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

中途半端な実践者

そもそも私は「研究より実践」という思いで新しき村にやって来ました。そして、この約三年間、「ユートピア実現」に向けての実践を私なりに試みてきたつもりです。しかし、結局それは「実践」と見做されないようです。と言うのも、私は事あるごとに「学者の意識が抜けていない」とか「理屈ばかりでは駄目だ」と批判されるからです。では、そのように私を批判する人達の言う「実践」とは何か。それは、どうやら「百姓になりきること」のように思われます。


確かに、私は百姓になりきることができません。それは決して「百姓になること」に意味がないということではなく、端的に私の資質の問題です。尤も安藤昌益の所謂「直耕主義」に影響されていた頃は、私も「百姓になること」が実践の第一歩であると思っていました。しかし、そうした「農本主義的ユートピア」を私はいつしか超えてしまったようです。そして、新しき村で生活しながら、その「真の新しさ」について思耕を深めるにつれて、少なくとも私の求める「ユートピア」は牧歌的な共同体(ちなみにウィリアム・モリスはそれをアルカディアと称して、都会的理想社会のユートピアと区別しています)に尽きるものではないという思いを強くしています。果して、こうした私の生き方は実践の挫折を意味するでしょうか。


明白なことは、現在の新しき村は依然として「農本主義的ユートピア」の理想を求める雰囲気に支配されているということです。この雰囲気の中では、私は永久に「中途半端な実践者」にすぎないでしょう。学問の研究者としても中途半端、農業の実践者としても中途半端――それが今の私の偽らざる現実です。