生産=芸術という理想
「生き物を殺したくない」というアヒンサーの自覚による米づくりは、一種の芸術活動だと思います。勿論、O氏にそんな意識はないでしょう。彼は「ユートピアの実現」ということに関してはかなり保守的で、その意味では「古き人間」(村の中では比較的若い方ですが)に他なりません。しかし、その素朴な米づくりの姿勢には確かに彼の主体性が伺えます。
ただ問題は、そうした自覚的な米づくりが可能なのは新しき村という比較的ビジネスに呑気でいられる場所だからにすぎない、という点にあります。おそらく村の外でO氏のような農法で米づくりをしていては、生活など到底できないでしょう。ここには先日述べた「自覚的消費者」の問題に通じるものがあります。すなわち自覚的な消費活動を志しても経済的な理由からその意志を貫くことができない場合があるように、自覚的な米づくりに挑戦したくても同じく経済的な理由からそれを果せないでいる人はたくさんいるということです。そもそも米づくりをしたくても、減反政策などで田圃にさえ入れない人もいるでしょう。その意味において、O氏の苦労は実に大変なものではありますが、彼は基本的に幸福だと言えます。
さて、私はここでO氏の米づくりという農業の例について述べましたが、「生産=芸術」という理想はそれ以外の様々な分野において可能だと思います。私は「生産活動」をかなり広い意味で考えていますが、単にお金を稼ぐための手段としてではなく、あくまでも自己の主体性を活かすための創造を目指したいのです。正にそのような創造活動こそ芸術の本質であり、私はそこに「自覚的生産者」の理想を見出します。しかし問題は、そのような「自覚的生産の場」を如何にして実現するか、ということでしょう。
私は先に、O氏の自覚的な米づくりは新しき村だからこそ可能にすぎない、と述べました。しかしこれは、新しき村がすでに「自覚的生産の場」を実現しているからではなく、単に過去の養鶏事業の成功による蓄えが未だあるからにすぎません。あと数十年経って、その蓄えがなくなれば、O氏のような米づくりは自ずとできなくなるでしょう。従って、その生産活動は体力的にも経済的にも持続可能なものとは言えません。
何れにせよ、私は「自覚的生産の場」は「自覚的消費の場」と相即していると思っています。その両者の実現こそが、「主体的生活者」の当面の課題に他なりません。