中途半端な研究者
かつてヘーゲルとキルケゴールの関係を研究していた頃、Was(何)とWie(如何に)の問題について考えたことがあります。すなわち、非常に大雑把に言えば、ヘーゲルの思弁哲学は「真の絶対者(神)とは何か」というWasの問題であり、キルケゴールの実存哲学は「絶対者に如何に主体的に関係するか」というWieの問題だということです。
ヘーゲル的に言えば、WasとWieは論理的につながっています。つまり、先ず「対象が何であるか」ということを把握した後、「その対象に如何に関わるか」ということが問題になるでしょう。これに対してキルケゴールでは、WasとWieは質的に断絶しています。従って、信仰は「神の理解」(哲学)を前提とせず、むしろそうした思弁的な努力からの実存的飛躍だとされるのです。
こうした対比に基いて、様々な場合について考えてみます。例えば、或る商品を購入する場合、普通はその商品について充分調べてから「購入するか否か」の判断をするでしょう。この場合には、Wasが先行しています。しかし、恋愛の場合はどうでしょうか。先ず相手のことを充分知ってから恋におちるでしょうか。私の乏しい経験から言えば、相手のことを客観的に知るよりも先に、すでに恋におちていたような気がします。言わば「アバタもエクボ」の状態です。その場合には、Wieが先行していると言えます。これが結婚となると、また事情が異なってくるでしょう。お見合いや事前調査を充分してから、結婚を決断することになると思われます。この場合にはWasが先行することになりますが、してみると結婚相手と商品は同じだということになるのでしょうか。
何れにせよ、様々な場合があるわけですが、我々のテーマである「ユートピアの実現」の場合はどうでしょうか。私は「真のユートピア」の実現に向けての実践者になろうと思っていますが、そのような実践を可能にするためには先ず「真のユートピアとは何か」という問題に取り組む必要があります。とすれば、私は新しき村で「怠け者!」と罵られているよりも、大学などの研究室で「真のユートピア」について思耕を深めるべきかもしれません。しかし、果して本当にそうでしょうか。
私は確かに中途半端な研究者にすぎません。また、昨日の便りで述べたように、実践者としても中途半端です。しかし乍ら、敢えて開き直って言わせて戴けば、そうした中途半端な情況こそ私の思耕の「現場」だと思っています。