ガウディ・大杉栄・実篤
武者小路実篤と新しき村を思う時、私はガウディとサグラダ・ファミリアを連想します。新しき村もサグラダ・ファミリアも「永遠の未完成」の様相を呈しているからです。しかし何故そうなのか。理由の一つとして、共に構想が余りにも壮大過ぎるということが挙げられるでしょう。併せて、その構想を実現に導く綿密な「設計図」が存在していないことも考えられます。遺されたのは大まかなデッサンだけです。しかし新しき村もサグラダ・ファミリアも現実に存在しています。そして日々その完成に向けての努力が積み重ねられています。バルセロナには世界中から一流の職人たちが集まっていると聞きますが、この毛呂山の地にも「理想的社会」を実現する志に燃える人々が集結してもらいたいものです。新しき村にはそうした情熱に値する可能性があると信じています。
更に、その可能性に関連して、私の連想は大杉栄にまで及びます。このラディカルなアナーキストと実篤の組み合わせには奇異の念を抱かれる向きもあるかもしれませんが、大杉には「武者小路実篤と新しき村の事業」と題する短文があります。そこで大杉は実篤のことを「文壇の中で窃かに僕が一番望みをかけていた人だった」と述べています。尤もその「望み」はやがて失望に変わります。大杉は言います――「僕は武者小路氏がクロポトキンのように蹶起して来るのを待っていたのだ。果して氏は間もなく起った。が、僕の期待は見事にはずれた。氏は民の声を斥け、人類の思し召しに背いて、その正直といっこくとをカイザルに売ってしまった」。ここには確かに失望があります。しかしその奥底には、「新しき村の精神」に対する大杉の根源的な共鳴が響いてくるような気がします。大杉の失望については改めて考えることにして、私はここで「新しき村」が稀代の風雲児の情熱さえも掻き立てたという事実に注目したいのです。実際、実篤が始めた「新しき村」という未完のプロジェクトには人間を限りなく熱くさせる何かがあると思います。それは人間として本当に生きるという「この道」に他なりません。
かつて世界が熱くなっていた時代、人々は真剣に人間の「この道」を問うていました。あの頃の熱気は一体どこへ行ってしまったのでしょうか。確かに世界は混迷の度を深め、単純に「理想的社会」を求めることが困難になっています。しかし私は敢えて世界がもう一度熱くなるのを望みたい。それは一面、ファシズムへと流れかねない極めて危険な賭けでもあります。しかし虎穴に入らずんば虎子を得ず、理想への情熱なくして生の充実はあり得ません。それぞれが理想への熱き思いに燃えて「この道」を歩く――これこそ実篤の遺志を継ぐことだと私は思っています。
更に、その可能性に関連して、私の連想は大杉栄にまで及びます。このラディカルなアナーキストと実篤の組み合わせには奇異の念を抱かれる向きもあるかもしれませんが、大杉には「武者小路実篤と新しき村の事業」と題する短文があります。そこで大杉は実篤のことを「文壇の中で窃かに僕が一番望みをかけていた人だった」と述べています。尤もその「望み」はやがて失望に変わります。大杉は言います――「僕は武者小路氏がクロポトキンのように蹶起して来るのを待っていたのだ。果して氏は間もなく起った。が、僕の期待は見事にはずれた。氏は民の声を斥け、人類の思し召しに背いて、その正直といっこくとをカイザルに売ってしまった」。ここには確かに失望があります。しかしその奥底には、「新しき村の精神」に対する大杉の根源的な共鳴が響いてくるような気がします。大杉の失望については改めて考えることにして、私はここで「新しき村」が稀代の風雲児の情熱さえも掻き立てたという事実に注目したいのです。実際、実篤が始めた「新しき村」という未完のプロジェクトには人間を限りなく熱くさせる何かがあると思います。それは人間として本当に生きるという「この道」に他なりません。
かつて世界が熱くなっていた時代、人々は真剣に人間の「この道」を問うていました。あの頃の熱気は一体どこへ行ってしまったのでしょうか。確かに世界は混迷の度を深め、単純に「理想的社会」を求めることが困難になっています。しかし私は敢えて世界がもう一度熱くなるのを望みたい。それは一面、ファシズムへと流れかねない極めて危険な賭けでもあります。しかし虎穴に入らずんば虎子を得ず、理想への情熱なくして生の充実はあり得ません。それぞれが理想への熱き思いに燃えて「この道」を歩く――これこそ実篤の遺志を継ぐことだと私は思っています。