東京へゆくな ふるさとを創れ
本日は「東京へゆくな ふるさとを創れ」という谷川雁の言葉について書きます。
かつて多くの若者たちは故郷の村を棄て、大都会・東京へゆくことを望みました。その意志には或る必然性があったと思われます。牧歌的な田園生活から刺激的な都会生活へ――これは人生行路における往相に他なりません。田園生活は、たとい如何に安穏無事なものであろうと、一度は破れざるを得ぬものでしょう。と言うのも、それはやがて因循姑息な古き村の営みと化す運命にあるからです。そして人は近代都市に新しい生活を求めることになります。そうした往相の根柢にあるものは、古き村の全体主義的生活から近代都市の個人主義的生活への移行だと言えるでしょう。人々はそこに生活の新しさがあると信じました。しかし、そうした思いを抱いて東京にやって来た人々が現実に獲得した生活は如何なるものであったでしょうか。個々バラバラの根無し草の如き生活ではなかったでしょうか。尤もそういう個人主義的な生活を快適だと感じる人もいるでしょう。面倒な他人とのつきあいを極力拒絶し、自分だけの世界に引きこもることは或る意味で一つの理想的状態かもしれません。しかしそれは明らかに逃避であり、どう考えてみても人間として本当に生きることだとは思えません。孤立は自立にあらず。個としての充足(自足)のみでは個人の内にすむ自我を完全に生長させることにはならないでしょう。少なくとも私には近代都市の個人主義的な生活が真に新しい生活だとは思えません。
かくして、東京へゆくな――この叫びから人生行路の還相が始まります。その時、曲がりなりにも全体性が保たれていた古き村の共同幻想が一つのノスタルジーとして我々を誘惑し始めるに違いありません。しかしもはや古き村に還ることはできないでしょう。たとい還ろうとしても、もはや「兎追いしあの山」はなく、「小鮒釣りしかの川」もありません。故郷はすでに多かれ少なかれ東京化されており、故郷自体が変質を余儀なくされているからです。その意味において、現代は故郷喪失の時代だと言えるでしょう。故郷に還っても、そこはもはや「ふるさと」ではありません。東京(近代都市)へゆくな、故郷(古き村)へもかえるな――では、我々は如何にすべきでしょうか。ふるさとを創れ! 創るべき「ふるさと」が新しき村であることは言うまでもありません。
かつて多くの若者たちは故郷の村を棄て、大都会・東京へゆくことを望みました。その意志には或る必然性があったと思われます。牧歌的な田園生活から刺激的な都会生活へ――これは人生行路における往相に他なりません。田園生活は、たとい如何に安穏無事なものであろうと、一度は破れざるを得ぬものでしょう。と言うのも、それはやがて因循姑息な古き村の営みと化す運命にあるからです。そして人は近代都市に新しい生活を求めることになります。そうした往相の根柢にあるものは、古き村の全体主義的生活から近代都市の個人主義的生活への移行だと言えるでしょう。人々はそこに生活の新しさがあると信じました。しかし、そうした思いを抱いて東京にやって来た人々が現実に獲得した生活は如何なるものであったでしょうか。個々バラバラの根無し草の如き生活ではなかったでしょうか。尤もそういう個人主義的な生活を快適だと感じる人もいるでしょう。面倒な他人とのつきあいを極力拒絶し、自分だけの世界に引きこもることは或る意味で一つの理想的状態かもしれません。しかしそれは明らかに逃避であり、どう考えてみても人間として本当に生きることだとは思えません。孤立は自立にあらず。個としての充足(自足)のみでは個人の内にすむ自我を完全に生長させることにはならないでしょう。少なくとも私には近代都市の個人主義的な生活が真に新しい生活だとは思えません。
かくして、東京へゆくな――この叫びから人生行路の還相が始まります。その時、曲がりなりにも全体性が保たれていた古き村の共同幻想が一つのノスタルジーとして我々を誘惑し始めるに違いありません。しかしもはや古き村に還ることはできないでしょう。たとい還ろうとしても、もはや「兎追いしあの山」はなく、「小鮒釣りしかの川」もありません。故郷はすでに多かれ少なかれ東京化されており、故郷自体が変質を余儀なくされているからです。その意味において、現代は故郷喪失の時代だと言えるでしょう。故郷に還っても、そこはもはや「ふるさと」ではありません。東京(近代都市)へゆくな、故郷(古き村)へもかえるな――では、我々は如何にすべきでしょうか。ふるさとを創れ! 創るべき「ふるさと」が新しき村であることは言うまでもありません。