横へ自己を生かすな | 新・ユートピア数歩手前からの便り

横へ自己を生かすな

私は新しき村において異端とされていますが、私の「祝祭共働態論」は実篤の考えを正統的に継承しているものだと自負しています。本日はそうした観点から、「横へ自己を生かすな」という実篤の言葉について書きたいと思います。

横へ自己を生かすこと、すなわち全体のために個を犠牲にすることが求められる共同体は古き村に他なりません。それは確固たる実定的な中心を有する円です。それに対して新しき村という共働態=円にはそのような中心はありません。しかし中心のない円などというものがあり得るでしょうか。中心がなければ円は破れ、個々バラバラの状態になります。正にそれが古き村を脱した近代社会の様相だと言えるでしょう。ではそうした近代社会を超克すべき新しき村とは如何なるものでしょうか。古き村とは異なる新たな中心を見出すことでしょうか。否! 中心は、それが如何に善なるものであっても、新しき村にあってはならぬものです。しかし新しき村も一つの円を形成する以上、中心が全くないわけではありません。新しき村の中心は絶対無でなければならぬ、と私は思っています。それは単に中心がないということとは質的に全く異なっています。単に中心がないだけなら個々バラバラになる他はありませんが、絶対無としての中心は個々の人間の中心に逆対応し、そのことによって一つの統合態を形成するでしょう。そこに実体としての中心を有する統一体=古き村との決定的な違いもあります。自己を真直ぐに生かす新しき村はあくまでも統合態でなければなりません。それは個々の人間の曼荼羅(マンダラ)だと私は思っています。