やっと金木犀が咲きだした。
例年は9月下旬から10月中旬ぐらいに咲き出すのだが、今年は10月も末、11月になろうとする頃にだ。
10月になった頃、今年はもう咲かないのかと思っていた。
昨年の秋も金木犀は花の付きが悪かった。
金木犀が茂りすぎていたので、昨年の春、自分流に剪定した。
それが悪かったと思っていた。
でも花をつけ咲いてくれている。
11月といえば落葉樹が葉を落とす頃だ。
モミジも黄色から赤く染め始めている。
その頃になって木犀が咲きだすというのは、気候が以前と変わってきているのが肌感覚で実感できる。
そういえば、彼岸花も咲き出したのが遅かった。
3年ほど前になるのだろうか?
彼岸花がまだ咲いていないというポストがXであった。
その投稿がテレビでも取り上げられ話題になって、私も彼岸花が何処かに咲いていないか探しにいったことがあった。
近くで彼岸花が早く咲くような所はどこかと迷ったが、市街地よりも少し気温が低い京都の奥、福井県と県境の美山町を目標に決めた。
美山町は市街地よりも標高が高く山間地である。
でも涼しいはずの美山町でも咲いていなかった。
まさかと思ったが、もう彼岸花は見られないのかと思ったほどだった。
それでもあっちこっち走り回って、やっと2輪咲いているのを見つけることができた。
これからも咲き出すのが遅くなりそうだ。
それが分かれば、もう彼岸花が咲いていないと走り回る必要もない。
例年、当たり前のように咲いている彼岸花である。
毒々しいと思われるような赤い花を咲かす。
本当は色も形もユニークで外国人には珍しがられているのだが、やたらめったら咲くのでありがたさが湧いてこないのだろう。
これが笹百合のような可憐な花であれば、もっと大事にするのであろうが、彼岸花では誰も振り向きもしない。
そのためか付けられた名前には、死人花、地獄花、毒花という身も蓋もない露骨な名前が多い。
可愛そうな花である。
これは墓の周囲に土竜除けとして彼岸花の球根を植え付けたためだと言われている。
昔の人達からすれば、墓場に咲く花とイメージが染みついていただろう。
それで彼岸花、曼殊沙華(天界に咲く花)と言われているのだろう。
彼岸花の原産地は中国揚子江流域だと言われている。
日本に渡来したのは縄文時代で、日本古来のものだと思っていたら帰化植物になるらしい。
それでは木犀はどのような歴史をもっているのだろう。
よく聞くのは中国の桂林の名前である。
あの水墨画で見るような景勝地の街だ。
桂林には(キンモクセイの林)と言う意味があるらしい。
その他には杭州や蘇州も金木犀の庭園や公園があり有名である。
きっと金木犀が咲く季節は何処に行っても、金木犀の匂いに包まれているのだろう。
木犀も梅と同じで中国から入ってきたモノだった。
では春になるとツンとした芳香をもたらす沈丁花はどうだろう。
この花も中国大陸からもたらされたモノだった。
中国名には瑞香、七里香、千里香などがある。
私の実家にも沈丁花の木があった。
裏庭の祠の横に少し大きめの木が植えられていた。
ウグイスが鳴く頃に、沈丁花が咲きだしていた。
昔のことを想い出し、我が家にも植えて見たのだが、庭が狭く、何度も剪定してしまううち、こしくれて、そのうち枯れてしまった。
人間も躾を厳しくしすぎると、子供にとって大事な成長の芽を摘んでしまうことになる。
子供を大樹に成長さすためには、親が自分のことをどう振り返ることができるのか、それが大きく問われることになるのだろう。
また大きく枝を伸ばせるには環境も大事な要素となってくるのは間違いがない。
私は俳句や短歌には全く素養はないが、以前ブログで彼岸花の俳句や短歌を紹介したことがあった。
今回は木犀の俳句と短歌を紹介してみたい。
〇 ある夜の月 金木犀 銀木犀 神蔵器
〇 末枯れの 地に点滴の 金木犀 楠本憲吉
〇 金木犀尼 白布で 頭を包む 山口誓子
〇 金木犀 神も媚薬も つくりけり 成瀬桜桃子
〇 金木犀 そこそこ入り日 道の果 大野林火
〇 金木犀 胸を匂ひの あふれ出づ 神蔵器
〇 好日や 金木犀の 花いきれ 鷹羽狩行
☆ 金木犀の香れる路地に入りゆかば 会いたきひとにいつまでも会へる 高田流子
☆ 夜はいい 金木犀の金粉の数ほど君が嘘をついている 吉川宏志
☆ ゆっくりと私は道を踏みはづす 金木犀のかをりの中で 筒井浩之
☆ 金木犀の花の微細な十字架が散り積もる すなわち今朝は雨なり 日置俊次
よく知られている金木犀の俳句と短歌を書き写してみると、その違いがよく分かる。
俳句はどこか写真のように思える。
そこには時の流れが存在しないが、俳句の中に活写された世界はいつまでも生き続けるような気もする。
でも短歌と違い狭い世界に閉じ込められた世界に見えてしょうがない。
その反面、短歌の世界は区切られておらず、時間枠がないように思える。
俳句と同じように限られた文字数なのに、どこまでも膨張し、広がっていくように感じる。
さらに表されている世界は切り取られた世界ではない。
流れゆく世界であり、時間でもある。
その時間枠はどこまでも広がろうとしている。
そこに表れている世界は現在でもあり、過去でもある。
短歌も俳句と同じで限られた言葉遊びであるのに、この違いは何だろうと思う。
俳句も、短歌も好き好きでどちらが優れているとは言えない。
どちらが馴染みやすいかだけだ。
だけど俳句はこれだと言葉を決めなくてはならない。
これが困る。
時の流れを短い言葉で切り取ることは難しいし、したくない。
優柔不断な性格の私はここでも難儀してしまいそうだ。


