またまた馬鹿な事を書こうと思ってはみたが、そう簡単に書けるモノではない。

思うよりもずっと難しい。

頭の何処かで常識の箍をはずせば、面白そうなことを書けるかもと思ったが、それはきっと間違いなのだろう。

常識の箍を外しても、それは私が馬鹿になるだけで、気の利いた面白い物語やエッセイを書けるモノではない。

それは重々分かっているのだが、でもどこかで期待している自分がいる。

しかし箍を外せばもっと常識がなくなって、それこそ警察のお世話になる事になってしまう。

 

 

ではおもしろいブログはどうすれば書けるのだろう。

私は御馬鹿なブログと表現してみたが、馬鹿なことを書こうと思うとかなりの想像力、発想の自由さがないとお馬鹿なことは書けないと思ってしまう。

それに知識もいる。

つまり馬鹿なおもしろい話は馬鹿な人間だからこそ書けると思っていたが、そうではなく、きっちりと計算され、そこに自由な発想がなければならない。

どの作品も何事もしっかりとした視点で物事を捉えなければ、創られた作品は輝きを増さない。

たかがブログで大げさなと思われるかも知れないが、表現する心構えはすべて同じで、小さなはがき大のモノから大きな大作まで気を抜くことはないし、手を抜くことは難しい。

これは私の仕事だけではなく、どの仕事でも同じことだ、時々依頼主は簡単でいいですよというが、そう簡単に手を抜くことなどできはしない。

 

 

少額、小品だからといって、いい加減な仕事をしていると思ったら大間違いだ。

どの仕事でも手を抜かないで皆さん頑張っている。

 

先にも書いたが物事をしっかりと捉えるには豊富な知識と経験が必要だ。

それが視点の土台となる。

しかし私には知識も経験もその両方がない。

いや、文章を書く才能そのものがなかったのだった。

馬鹿なことを書くには馬鹿では書けないことが今更ながら思い至ったのだった。

 

それでも馬鹿な事を書こうと藻掻いている私はやはりどうしょうもない馬鹿なのだろう。

馬鹿なことでもいろいろな分野がある。

私の場合はちょっとエッチなエロことを書いていたつもりだった。

でもどれもが中途半端でつまらないモノだった。

スケベなことを書けば読んでもらえると安易に考えていたのかも知れない。

でもこの分野はそれほど簡単ではなく、経験と文章力と発想力がいるのであった。

これまた私には何も無かった。

 

ブログにしてもそうだが、物語を創る方も、読む方も、それなりの想像力ないと成り立たない世界である。

エロの世界も勿論そうで、そのものずばりの世界よりも、読者に匂い立つようなエロを想像させ濃密な世界に誘う。

それができていないと読んでもらえないのだろう。

 

平安時代の公家も夜這いをする前に、和歌を交わしていた。

相手がどのような歌を返してくるか、それによって相手に教養があるかないか、性格も分かるし、センスのあるなしまで分かる。

また返歌の和紙に匂い付けをするのも何とも艶めいている。

「私はこのような艶めかしい匂いがしているの」と相手を誘っているようにも思える。

身分の高さに眼がいきそうだが、それだけではない。

高度な遊び心も必要なのだろう。

エロもそれなりの知識がないと、濃密な世界が自分の前にあることさえ分からないし、更にその世界に踏み込むことさえ出来ない。

 

では私が和歌に詳しいかと聞かれれば、これがまったく全く分からない。

その他俳句も短歌も分からないままだ。

それでも時々、俳句や短歌のブログを書いていたりするが、ただいいかっこをしているでけでいい加減としかいいようがない。

自分の中でこれはちょっと違うのかな~と気持ちがずっとある。

でも好きだからしょうがない。

 

で、今度も書こうとしたのだが、エロでも私よりも先を走っていそうな人たちがいると思うと上手く書けない。

書く私としてはちょっとビックリさせてやろうと思っているのだが、フン、そんなことと鼻で笑われていそうな気がする。

ある程度興奮してもらわないとこちらもおもしろくない。

ブログを読んでいる女性の方にも、男性の方にも、身体に変化を与えるようなモノでなくてはおもしろくない。

スケベな私は特に女性の方にそれを期待している。

 

そうかといってアダルト系のブログのマネをしても、これまたワンパターンで新鮮味がない。

小説家はどのような心持で男女の秘め事を書いているのだろう。

それらのことは架空の物語と割り切ったとしても、自分の体験を基にした妄想なのだろう。

でもそうなると、自分の知られたくない内面までも晒すことになってしまう。

作家であっても、余程のことでない限りそのようなことができるモノではない。

ある程度の覚悟がいる。

しかし、それは露出癖がある小説家の悲しい性なのだ。

 

そう考えると、ついヘンなことを想像してしまう。

男性小説家は秘め事を妄想している時、もしかしたらあそこを膨らまさせて小説を書いているのだろうかとか考えてしまう。

まさかとは思うがそう考えてしまうのだ。

少し太り気味の脂ぎった中年の小説家が、机の下で何やら怪しく下半身を膨らませながらかいている図をあまり想像したくない。

でもそのような事もあるのだろう。

一日ほとんど日に当たらない苔のような隠花植物小説家が、エロエロな妄想を膨らませながらせっせと書いたモノを、私達読者がまた下半身を膨らませながら読んでいる。

何とも侘しい光景だろうと思ってしまう。

でも1980年代の頃、そうした小説が夕刊フジや週刊誌に溢れていた。

そういう私も電車内でアソコを膨らませながら読んでいた気がする。

 

では女性小説家はどのような感じなのだろう。

やはり男性小説家のように自分の体験を基にして妄想を膨らませて書いているのだろうか?

まさかそんなはしたないことはないだろうと思っているが・・・・・

でも男性作家とそう違いはないかも知れない。

あの時、あの男性は私にこうしてくれたとか、あの時は私がこうしてあげたとか、いろいろ華やいでいた昔のことを想い出して書いていてもおかしくはない。

その場合、男性作家とは別の何かの現象が身体に起きているのだろうか?

その場合鼻の穴も開いているのか?

何とも興味深いことだ。

 

きっとそのような現象のもとで彼女たち作家もせっせと小説を書いているのだろう。

何にせよ、男性作家も女性作家もエロなことを書く場合、ムラムラとした興奮状態で小説をかいていると想像できる。

そう思うと彼等小説家と私達に垣根はなく、何か微笑ましい感じさえする。

しかし、これも四六時中同じようなことを書いていれば飽きるだろうと私達はつい思ってしまうが、それは素人が思うことで、彼等は書くことに飽きることはない。

アイデアは泉のごとく溢れてくるし、エネルギーも私達素人とは桁違いだ。

 

エロ小説でも、純文学?と言われている小説でもそうだが、登場人物がどう描かれているかで、エロさも変わってくる。

リアルに丁寧に人物像が描かれていれば、エロ具合は何倍にも膨らむし、私達読者もその世界に我を忘れ浸れることができる。

さらに色、音、匂い、味覚、感触を万華鏡のように加えると迫力が何倍にも増してくる。

 

私は匂いと味覚までを微に入り細に入り描いたエロ小説にまだ出会ったことはない。

ここまで踏み込むことができればおもしろい小説が書けると思うのだが・・・・・

しかしエロは千差万別何が正解で何が間違っているなど言えるものではない。

その人、その人、それぞれのエロがあっていいのだろう。

で、私のエロはと聞かれれば、さてと困ってしまう。