いたずら電話は今でこそ減ったが、以前は私の家でもあったような気がする。
大概のいたずら電話はエッチな内容であったようだ。
今になってみれば、どこか懐かしいような気がしないでもない。
以前、据え置き電話に出た連れ合いが「この声」とボソッと言ったことがあった。
普段そんなことをいわないので、えっと思った。
しかし私は「この声」に引っかかりながらも連れ合いに何も聞かなかった。
なぜかやり過ごしてしまった。
連れ合いに「この声」のことを聞くのが怖かったからだろうか?
ではなぜ怖かったのか?
どこか思い当たることでもあったのか。
それとも別な不安なことでもあったのか。
電話の主は、私の狭い付き合い範囲の中の一人であった。
携帯もあるが、ほとんど家の何処かに携帯を置き忘れたままになっていて、なかなか電話に出ることがない。
それで据え置き電話にかかってくることが多い。
普段はメールのやり取りが主だが、何か電話でなければならない話かと思ったがそうでもなかった。
連れ合いが「この声」と言った時から時間は経っていたが、あれからずっと私の中で引っかかていた。
連れ合いが言った「この声」は何だったのか?
「この声」と言った切り、それ以上何も言わなかったのは、数少ない私の交流関係を思ってのことだったのか。
それでも聞かずにはおれない気持ちはある。
だが聞かずにそのままにしていれば、何もなかったことにもなる。
それでいいではないか。
ずっと前のことだ。
何も事を荒立てることもない。
ただのいたずら電話だ。
気にしすぎだと自分を一人慰めてしまう。
しかし、一度気になってしまうと気持ちの収めようがない。
意を決して聞いてみる。
詳しいことは控えるが、確かに以前いたずら電話のような事があったらしい。
それもずっと前のことらしい。
それがあのいたずら電話の主と、私の交流関係者の一人の声とよく似ているという。
私がずっと以前のことだ思い違いではないか?と聞いてみたが、連れ合いは意に反して、あの息遣いと声はよく似ていると言い切った。
女の第六感だ。
相手も声を変えていただろうが、息遣いや、微妙な声の質までは変えられない。
女性のこういった時の感は鋭い。
ほぼ超能力といっていいだろう。
大方の男性はそれを分かっていないから色ごとで失敗する。
きっと連れ合いは男性の人柄までをズバリと当ててしまっていたのだろう。
間違いであってもらいたいと願っていたが、私はそれ以上は何も言えなかった。
連れ合いは今まで確信を持っていたのだろうが、これまで何も言わなかっただけだ。
それがこの前ぽろっと言いだした。
友達を選ぶならもう少し慎重にと、暗に私に言いたかったのかも知れない。
私もこの人物の付き合いで、ふむ~と思うことは何回もあったが、それはできるだけ気にしないようにしてきた。
それが良くなかったのだろう。
それにしても連れ合いにいたずら電話とはどうしたことだろう?
そのような電話の対象になる年代でもなかったはずだ。
ということは私の家を侮辱をして、貶めたいという気持ちが何処かにあったということなのか。
それが目的だったのだったのなら寂しいかぎりだ。
裏切られたという思いはとても強い。
私の家にかかってきた電話は、若者たちが気安く、遊び半分のつもりでしてきたいたずら電話とは違う。
若くはない年齢だ。
その友達の伴侶にいたずら電話など、そう簡単にできるものではない。
私ならまずやらないし、できない。
いや大方の男性ならそうだろう。
私の場合は吃音ではしたくてもできないし、またやったとしても吃音ですぐにばれてしまうのだが・・・・・
でも私に対する悪意とは何なのだろう?
そんなことを考えていると頭が痛くなる。
いたずら電話の主も同じくいい年齢で、馬鹿なことをことをする年代でもないはずだが・・・・・
このような分からないことをいくら考えても仕方がない。
本当に人は分からないモノだ。
いたずら電話も私の家だけだったらまだ救いもあるが、習慣化していたならその病気の根は深い。
隠微な喜びというものは人それぞれ、一つか二つは持っているものだ。
私もあったが、それは誰かと共有しているから楽しいので、一人でのそうした行為は自分の大事なモノ迄も溶かして、ボロボロにしてしまう危険性がある。
彼はどこかで人生を、自分の境遇を恨んでいたのだろう。
その鬱憤のはけ口として、吃音で弱そうな私を標的としてきた。
そう思うと尚更寂しくなる。
救われないのは私ではなく彼の方だろう。
このようなねじくれた憂さ晴らしをしていると、絶え間なく悩みや苦しみが次から次に襲ってくるようになる。
そうこうしていると逃げ道はなくなり、八方塞になる。
無間地獄の入り口がこちらを向いて招いているだろうが、その道に招かれてはだめだ。
彼にも救い主がいたようにも思えたのだが・・・・・・