私はずっとオーケストラが奏でる音が理解できなかった。
それは物理的な音のことで、私たちが情緒的に受け止める音のことではない。
なぜあのような楽器の編成になったのか未だに理解できていないからだ。
一つの楽器の音でも驚くような音の響きが出て、遠くからでも楽器の音がよく分かることがある。
その楽器がオーケストラでは70も80も、時には100近く集まることもある。
いくら何でも多すぎはしないか?
低い音から、高い音まで楽器特有の音があるのだろうが、音や調子を合わす為、専門の指揮者迄用意しなければならないのはどうかしているようにも思える。
今はその指揮者が花形のように扱われ頂点にいる。
オーケストラは西洋音楽の歴史的と共に、楽器の開発もまた同じようにあるのだろうが、なぜその西洋人の音楽を我々日本人が神のように奉らなくてはならないのか?
そこにもっと疑問を持ってもいいはずなのだが・・・・・
西洋音楽を我々日本人が聞きだしたのが、明治元年からだとして、ざっと150年前からになる。
いや厳密にいえばもっと後になるのだろう。
日本国民皆がラジオを聞きだした昭和20年以降になるのかも知れない。
そうなるとたった80年ほどの間ともいえる。
その長いのか短いのか分からない間に、我々日本人は西洋音楽、それもクラシック音楽を理解できるようになったのだろうか。
そんな疑問が浮かんでしかたがない。
我々は中学校で、音楽を五線譜で教えられた。
もっと他に教え方があったと思うが、あの当時は先生も下手な教え方をしていた。
きっと先生もよく分からなかったのだろう。
それよりも、何よりも先生が自体が西洋音楽、それもクラッシック音楽を肌で感じることが出来なかった。
自分の体に西洋音楽を入れることができなかった。
私達子供もただ上から御下がりのように黙って西洋音楽を聴いているだけだった。
あの時は下々のモノは有難く西洋音楽を聴けと言われているような気がしていた。
先生はこれが芸術だと信じていたのだろう。
皆が皆、バッハやベートーベンを神のように崇めていた時代だった。
今なら先生も肩ひじ張らずに教えてくれるだろうと思うのだが・・・・
私は音楽のジャンルは何でも聴く方で、好き嫌いは特にない。
ただ拘りがあって、スピーカーはドラムの音をどう表現してくれるのか、一時それだけに固着していた時期があった。
ドラムの皮の張り方の具合まで分かるスピーカが私は欲しかった。
殆どのスピーカーは実際のドラムの音はしなくて、作った音が多く、それも皮がぴしっと張れてなく、どこかぶよぶよしていて頼りない音に聴こえた。
やっと見つけたのが今のスピーカーだった。
だけどオーケストラの音だけはどうしても表現しきれない。
これはリスリングルームの大きさによる。
私の部屋のように狭小な所ではどうしても表現できない音になってしまう。
だからと言って、大きな部屋で聴けるのかといえばそうではない。
巨大なスピーカーであってもフルオーケストラの音だけは残念ながら再生できない。
オーケストラの音だけは生で聴くしか方法はない。
アメリカ映画で昔、「オーケストラの少女」という映画もあった。
あまり知られていない映画だけど、黒澤明監督の「素晴らしき日曜日」では、貧しい二人が誰もいない日比谷野外音楽堂でシューベルト未完成交響曲を指揮する場面は心に残る。
私はこの映画がすきだ。
黒澤監督がどれほどクラシック音楽に思い入れがあるかよく分かる。
私もよく分からないながらもクラシック音楽に惹かれる。
しかし、なぜ西洋のクラッシック音楽が尊ばれるのか?
日本人としてそれがおもしろくない。
また学のない人間には高尚と思えるモノには僻みがどうしても出てしまう。
それが情けない。
大掛かりな大編成の楽団の音楽が、どの音楽のジャンルよりも最上級のように思われているようだ。
確かにクラシック音楽の中には魅力がある曲が多い。
特に弦楽器のバイオリンやチェロの音には癒される。
またショパンの哀愁漂う曲は誰にも好まれるだろうし、ラフマニノフのピアノコンチェルト2番はドラマティックで分かりやすく、ショスタコーヴィチのセカンドワルツと並んで親しみやすい曲だ。
確かにいいモノはいいと認めるしかない。
それは分かっている。
17世紀から18世紀頃までのバロック音楽の編成は多くても20名ほどの規模のものであった。
今では100人を超す編成もあると聞く。
オーケストラは木管楽器の人数によって弦楽器や金管楽器、打楽器の規模が調整され、それによって全体の編成が決まると言われている。
編成の区分けは、木管楽器を主体として二管編成、三管編成、四管編成と区別されている。
二管編成だったら、木管楽器がそれぞれ2名づつということになる。
では三管編成なら3名づつなのかとそう簡単ではなく、木管楽器のバリエーションが増えることもあるらしい。
オーケストラは曲目にあわせ、適時柔軟に対応していることもあるのだろう。
五管編成になると、木管楽器各セクションの人たちは5人ずつ配置されることになる。
これに応じて第一バイオリンは20人、第二バイオリンは18人、ビオラは16人、チェロ14人、コントラバス10人、これに管楽器、打楽器、ピアノなどをいれると120人を超えてしまう。
それがマーラーやシュトラウス、ストラヴィンスキー、シェーンベルクの曲になるらしい。
しかし通常の演奏では、二管編成や三管編成が多い。
二管編成の中でも8型、10型、12型とに分れている。
この型は第一バイオリンの人数を表していて、8型は第一バイオリンが8名、10型は10名、12型は12名となる。
その型に比例して、第二バイオリンやヴィオラ、チェロの数も増えていく。
この二管編成でも12型であれば総勢60名ほどにもなる。
三管編成はになると第一バイオリンの数は14型が多いようだが、16型になった場合、総勢90名にもなる。
これは曲目によって編成を変える必要があるからだ。
しかし先にも書いたが、なぜこれほどの演奏者を集めなければならないのか?
戦前から戦後にかけて、ビックバンドジャズの時代があった。
その時の編成は15人から20人ほどで、トランペットが4人、トロンボーンが4人、サックスが5人でリズムセクションが4人ほどだった。
私は原信夫のシャープ&フラッツの生演奏を若い時に聞いたが、金管楽器特有の耳に突きささるような硬質な音には迫力があった。
最近では高校生の吹奏楽部でもすごい演奏をすることも稀ではない。
京都の橘高校は独自の路線で吹奏楽の演奏を行っている。
あの少女達の演奏は本物で、おまけにダンスまで披露するのだから、楽しませ方は半端ではない。
吹奏楽も多人数になれば驚くような大きな音になる。
それも正しく演奏されていたら、なお一層心時めき、忘れられない響きとしていつまでも心に残る。
オーケストラの音もきっとそうなのだろう。
耳だけで聴くモノではなく、身体で感じてほしい音でもあるのだろう。
それは理解できる。
でもなぜあのような大がかりな編成なのだろう。
先でも書いたように私は今だオーケストラの音とは何だろうという疑問をもってしまう。
専門家に言わせれば、オーケストラの音は、時を重ねて理論的に作られた音の結晶だ。
お前ら下々のモノが何を言っていると馬鹿にされるだけだろう。
でも原爆をテーマとした交響曲「hiroshima」を作曲したという佐村河内守さんのこともある。
絵の世界もそうだけど、音楽の世界も闇はある。
本物が本物として認められるようになるといいのだけど・・・・・
で、オーケストラの編成も、音も未だに理解できないものの、音自体は生もので、生き物であるとしか思えない。
大勢の演奏者が集まって、一時だけそこで生命を与えられる音だ。
楽器を叩いて、擦って、吹いて、周りの空気にエネルギーを与える。
空気は熱を帯び地の磁場と交わる。
そして地と交わった空気は新しい創造物として命を与えられる。
演奏をする、一時だけの命を与えられた生き物だ。
生き物は演奏中会場のあちこちを駆け巡る。
時には私達の体内に入り込み気を昂らせたり、心地よい気持ちにさせてくれる。
日本人も外国人に負けないような指揮者や作曲家が出てこないかと思っていたら、久石譲さんがその役目を果たしてくれた。
宮崎駿作品の音楽を担当していたからだろう。
とにかく今でも海外では凄い人気のようだ。
あの宮崎さんの作品はシンセではなく、すべて管弦楽のオーケストラで演奏している。
それが良かった。
宮崎さんの絵にも奥行きが出て、雰囲気を倍加させることに成功していた。
宮崎さんは久石譲さんに相当助けられている。
なぜなのような多人数の編成になったのか