日本には古から太陽と月を愛でる風習がいろいろある。
その中で中心となるのは太陽神のアマテラスだろうし、月の神は月読命になるのだろう。
日本の神話では姉と弟の関係だが、太陽と月の関係は陰と陽の関係でもある。
プラスとマイナス、どちらが欠けても成り立たない関係だ。

以前にも書いたかも知れないが、私が住んでいる所には、月と関係がありそうな月読橋という、風情がある名前の橋もあれば、その傍にはこれまた月読神社という名前の社もある。
ちょっと足を伸ばせば、嵐山の近くには渡月橋があり、橋の下を流れる桂川沿いには、お酒の神様の松尾大社もある。

松尾大社の傍には先ほどの月読神社の本宮される月読社がある。
この神社、松尾大社と並ぶ名神大社に列せられていたが、現在は松尾大社の摂社になっている。

月読神社は秦氏と隼人氏に関係が深いと言われている。
その秦氏の氏神と言われているのは、桂川沿いの松尾大社だ。
古、松尾大社から亀の背に乗って、月読命と市杵島姫命は桂川を遡上してきた。
途中八畳岩辺りから保津の急流で上れなくなり、鯉に乗り換えて、現大井神社がある辺りまで来たという。
この市杵島姫命、素戔嗚命の三人娘の一人らしい。
海の神、宗像三女神として有名だ。

アマテラスからみれば、すぐ下の弟が月読命で、素戔嗚命が末の弟になる。
つまり月読命からみれば、市杵島姫命は弟の娘ということになる。
なぜ月読命と市杵島姫命が一緒に亀に乗り、松尾大社から桂川を遡って来たのだろう。
また隼人氏と秦氏どのような関係があったのだろう。
京の都の西側、今の太秦の地を開拓したのは秦氏だった。
その後、新しい地を求めて丹波に入ったのだろう。
それに付き従ったのが、隼人氏だったとも考えられる。
隼人氏の移住地として有名なのは京都の田辺市で、1300年ほど前に九州の大隅地域から移住してきたと言われている。
秦氏もそれ以前から西暦300年から600年頃にかけて、多くの人たちが朝鮮半島から渡ってきたと言われている。
天皇が京に都を作る前に、秦氏は山城を根城にしていたことになるのだが、その一方で山城には賀茂氏もいた。
山城の地で都が京に置かれる前、秦氏と賀茂氏はどう棲み分けていたのやら。

また賀茂氏と言われる人たちはどのような氏族だったのか?
一説には神武天皇の水先案内人だったとも言われている。
つまり海人部説だ。
秦氏の方が能力において賀茂氏よりも優秀だと思われるが、神武天皇を八咫烏として案内してきた功績は大きかった。
だから賀茂社として厚く祀って来た。
京の都でも賀茂氏は秦氏よりもいい土地と地位をえられている。
熊襲と言われていた人達もそうだけど、九州ではいろいろな部族大和と対立していた。
隼人氏の乱もそうだった。
大和は乱を治めた後、隼人氏の捕虜のような形で強制的に大和の周辺地域に移住させた。
その一つが京田辺市であったと言われている。
京田辺市にも同じように月読神社があり、毎年10月14日には隼人舞の
奉納式が行なわれている。

隼人の移住地は京田辺市だけではなく、他にもあったといわれている。
丹波では、京田辺のような与えられた土地はなかった。
自分たちで開墾、開拓しなければならない土地だった。
丹波の丹は朱赤で、その朱赤が波だっているという意味だ。
言い伝えでは、丹波の土地の多くは大きな沼だったらしい。
鉄分が多い沼は赤く染まっていたという。
その沼を切り開いて、沼の水をは保津川から桂川の方に流した。
それが秦氏だったと言われている。
保津川を望む桑田神社には祭神として、市杵島姫命が祀られている。
それからもわかるように隼人氏が丹波の開拓に大きな力を与えたことが考えられる。

いや、だが少しだけ時代が違う可能性があるかも知れない。
もう少し時代を遡る必要があるのだろう。
しかし隼人氏に近い人達が、丹波開拓のために尽力したことは考えられる。
隼人氏は葛城氏と関係が深かったと言われているからだ。
丹波は彼らにとってそこは新天地だった。
新しい土地には自由があったようにも思われた。
その後、彼等は秦氏と協力して、丹波の地に根を生やした。
それが月読神社の形として今も残っている。
月読命は女神のような名前で可愛い、その反対に天照大御神はどこか男神のような猛々しさがある。
天照大御神には二人の弟がいるが、長男のほうの月読命は何故か影が薄い。
それどころかアマテラスにそのような弟神がいたことも知られていない。
その反面、次男の素戔嗚命の方はよく知られている。
なぜだろう。
一族のこととはいえ、これはやはり部族間の勢力を如実に表わしている気もする
月読命は古くから天照大御神に仕えていた神だが、素戔嗚命の部族のような力は無かったようにも考えられる。
天照大御神と月読命、素戔嗚命これらの部族はお互いの血を混じらわせて大きな勢力となって繁栄してきた。
それが古代天皇家の神話として残っているのだろう。
もともと隼人氏の祖先神は海幸彦であると言われている。
隼人氏も海人部も海幸彦海との関係が深い。
でも同じ神を信仰していると思ったらそうではなく、隼人は自分たちの祖先、海幸彦を打ち負かした神、山幸彦を厚く信仰していたらしい。
何かこの辺、彼等隼人氏の複雑な歴史観が見え隠れする。
海人部は海幸彦もそうだが、綿津見三神を信仰していたそうだ。
同じく海人部と見られる安曇、阿曇氏も綿見三神を信仰している。
ここでよく間違えられるのは綿津見三神と宗像三神だ。
いや他にも住吉三神との間違いもあるそうだ。
私もよく混同していた。
同じ海の神だし三神だから間違えやすい。
その海人部と隼人氏は古代様々な交流があったと言われている。
人の交流や物資の交流などだろう。
ここで面白いのは、海の神が知らぬ間に山の神になっている点だ。
京都の奥の方の、山間地に行くとそのような神社が多い。
北アルプスの麓、上高地にもそのような神社がある。
上高地の明神池近くにある穂高神社の奥宮である。
海の民、安曇氏の氏神がなぜこのような山奥にあるのだろうと不思議になる。

昔から海の民と山の民は同じような人たちだと言われていた。
何となく納得がいく話だ。
天照大御神は太陽の神で月読尊は名前から分かるように月の神だ。
西洋では太陽の神は男神で、月の神は女神であるように私は思ってしまうのだ。
それがなぜか日本では太陽の神が女性になっている。
古代、卑弥呼と言われていた巫女と関係があるのだろうか?
また天照大御神はツングース系で、卑弥呼と同じように部族の巫女のような存在だったのかと勝手に想像を膨らませてしまう。

しかし卑弥呼は顔に入れ墨を入れていたとも言われている。
それならば、ツングース系よりも南洋の血を引いた民とも考えられる。
日本では戦前のアレルギーが有るのかも知れないが、もう少し日本の神話、それに連なる歴史をもっと大事にしていいはずだ。
今のように外国の人たちが日本に多く住みだすと、これからいろいろな問題が起こりだすことが考えられる。
そのことを想像して考えることも必要だ。
教科書でもこれから様々な問題がでてきて、教育の現場で軋轢が出てくると予想される。
それだけ権利意識が強くなってくることも考えなければならない。
それに対して、我々は自分たちの国の成り立ちを神話も含めて、大事に残すことも考えなければならない。
それが国防の一つにもなるような気がする。
大袈裟ではなく、日本を守るのは日本の文化、歴史を守ることにもなる。
別に戦前のように学校で神代の歴史を教える必要もないが、史実である国の歴史と同じように、神話も大事な国の成り立ちを示している。
だから少しぐらい神話も勉強しても良いように思う。
そうすれば、日本の歴史にも興味を持てるし、地元の神社にも興味を持てるようになる。
これから地方の村や町は人口減少に悩むことになる。
寺や神社の存続も危うくなってしまう。
根っこから日本の文化がぐらつくことになってしまうはずだ。
そのような地方に外国の人たちが多く住むことが予想される。
村の大半が外国人と言う村が生まれてもおかしくはない。
その時私達はどうするのか?
黙って見ているのか?
私達は自宅近くの何でもないお寺や、神社の佇まいを見て自分の存在を確認することがある。
今でもお寺や神社は特別なモノで、自分が何処の場所に属しているかを改めて知る事になる。
これはとても大事な事で、私自身の血となり肉となっているような気がする。
地元の神社の歴史を知ることは自分達先祖の歴史を知ることにもなる。
私の街の月読神社を知ろうとすると、実際の歴史もそうだが、やはり古事記や日本書紀等も知ろうと勉強する。
しかしギリシャ神話などに比べて、なぜか日本の神話は偏見の目で見られてしまう。
自分たちの財産であり、歴史でもある神話をこのような位置に押し込めていていいのだろうかと、柄にもなく憤慨する。
これも戦後日教組などの教育のせいだろうと諦めてはいけないのだろう。
これからはもう神話を偏見の目で見なくても良いように思う。
もっと素直に古代の人達の営みを、神話というフィクションで感じればいい。
そうすることによって私達の土地への帰属意識は強くなり、土地への愛着も深く大きくなっていくはずだ。
俯瞰して見れば身近な人々や、お寺や神社がその土地への愛着となって、愛国心へと繋がっていくのかも知れない。