「ヨイトマケの唄」は美輪明宏(当時は丸山明宏)さんが作詞作曲をし、1964年(昭和39年)にリサイタルで初めて歌っている。
それからもう半世紀以上になるが、名曲は長い間経ってもちっとも古くならない。
それどころか長い歳月、多くの観衆、歌手に愛されてますます輝きを増しているように思える。
「ヨイトマケの唄」はこの先ずっと歌い継がれていくのだろう。
でも、なぜそんな素晴らしい「ヨイトマケの唄」が何時頃からか民放では歌えなくなってしまったのか?
いったい何が原因だったのか?
今回はその辺のところを少し探っていきたい。
「ヨイトマケの唄」のシングルレコードは1965年のキングレコードから発売され、約40万枚を売り上げている。
当時としてはとんでもない売り上げになる。
しかし発売後間もなくして、歌詞の中に差別用語(土方)や(ヨイトマケ)が含まれていることから、日本民間放送連盟は要注意歌謡曲に指定する。
要注意曲に指定されたことにより、それ以降原則として民放では放送されなくなったと、ウィキペディアでは一応書かれている。
え、ほんとうかと疑ってしまったが、過去番組の中で流した歌謡曲のことまで全ての記録が残っているわけでもないから、本当の処は誰にも分からないのが実情だろう。
私は初めて「ヨイトマケの唄」を聞いたのが民放だったか、NHKだったか今はもう忘れてしまったが、私はその後何度もラジオやテレビで「ヨイトマケの唄」をこれまでに聞いている。
私が聞いていたのは60年代後半から70年代にかけてだったと思う。
私はレコードで聴いたわけではないから、この歌を放送以外で知ることはなかった。
以前にもブログに書いたことがあるが、私の友人は歌の主人公のように日雇い労働をされていた母親に育てられていた。
私は男性に混じって肉体労働をされている友人の母親の姿を見て複雑な気持ちになったのだが、何があったかは友人には聞けなかった。
この歌は差別を助長する歌ではない。
この歌の素晴らしさは、差別に負けずに堂々と人間としての誇りを高らかに歌っている処だろう。
また差別は至る所にあり、誰でもどこかで差別されているから、それにいじけないで、負けないで頑張っている処に多くの人たちの共感がうまれたのだろう。
美輪さんはこの歌がヒットした1965年の紅白への出場依頼があったらしいが、その当時、出場歌手には持ち時間が3分以内という規定があり、そうかといって6分近くある「ヨイトマケの唄」少しでも削ってしまうと、歌本来の持っている大事なモノ迄失ってしまうことになる。
それを危惧した美輪さんは紅白の出場を辞退している。
要注意曲制度が廃止された1983年、そのご5年の猶予期間中である1985年に、テレビ東京「夏祭りにっぽんの歌」で美輪明宏さんは歌っている。
その後、1990年TBS「ぴりっとタケロー」に出演依頼があった。
美輪さんは本番で歌うことを初め拒否していたが、どうしても「ヨイトマケの唄」を本番で歌ってほしいと現場から熱望され、それではと仕方なく本番で歌うことを承諾する。
ところが放送2日前になって、突然「歌はやめてほしい」と一方的に言われる。
二転三転する放送局の態度に憤慨した美輪さんは出演を取り止めた。
TBSはなぜ美輪さんに失礼なことをしてしまったのだろう。
きっと現場と上層部との意思疎通が上手くいっていなかったのと、司会の森本毅郎さんはNHK出身だから、もともと「ヨイトマケの唄」を放送しても問題はないと思っていただろうし、民放連の要注意曲制度も廃止され「ヨイトマケの唄」はテレビ東京ではすでに放送している。
森本さんにすれば何も問題はない思った。
でもそうではなかった。
TBSの上層部からダメが入ったのだった。
いったいTBSで何があったのだろうか?
一つ考えられるのはその前年、1989年10月2日に放送したTBSの筑紫哲也さんの「News23」に関係があったのではないだろうかということだ。
この番組で筑紫哲也さんがぽろりと言っ言葉に、ある人達が反応してしまった。
今でもこのぽろり言葉のどこが、何が問題なのか私には分からない。
当時の多くの人たちもそう思っただろう。
ただの揚げ足取りとしか思えない。
しかしある団体は筑紫さんが「News23」で言った言葉が問題だとして、一年にわたり9回の糾弾会を開いたのだった。
糾弾会とは差別行為があったとことを事実として確認するための行為で、大勢の人たちが差別したとする人間に寄ってたかって罵詈雑言を浴びせ吊るし上げるモノである。
団体は筑紫氏をはじめTBSの幹部らを集めて、何時間も糾弾したという。
名目上は差別行為の事実確認というモノで、その責任を問い、○○問題に対する認識姿勢を糾して、総括と称する自己批判を差別をしたとされる人たちに要求するらしい。
そして差別とみなした行為の謝罪と補償を団体側は強要してくる。
その間、苛烈な吊るし上げが何度も行われる。
つるし上げられた人たちは精神的疾患やトラウマを負うという。
1970年代の糾弾会の様子を月間「創」が掲載している。
「今まで大会社の普段滅多に会うことができない社長が来て、『なんともならないことをしまして』いうてあやまるのや、そんな気持ちのええことあらへんやろう。立場の逆転で、それで酔うていくの、その中のやり過ぎということもあったのは事実や。『お前に差別された痛みがわかるか!』と言って首絞めたり、バーンと足踏んで『ドヤ痛いか!』と『痛い痛い』言うやろ『踏まれたもんの痛さがわかるか!』と言うてガチンガチンと足を踏むわけ」
何ともすごいことが書いてある。
少し前まで役所でもこのようなことが行われていたと聞いたことがあったが、放送局もターゲットにされていたのだろう。
私もそうだが、吃音で馬鹿にされたり笑われた相手を土下座させたり、痛めつけたりしたらその時は気持ちが少し晴れるかもしれない。
でもこれでは何も解決できないし、後に自己嫌悪に陥るだけだ。
暴力を使わなくても、糾弾会は集団リンチ以外何物でもない。
それどころかこの方法では逆に差別を広めるだけだ。
糾弾会で痛めつけられた人には全く心当たりがない人たちもいただろうし、どちらかといえば差別に理解があった人たちもいただろう。
でも糾弾会により差別に理解ある人々まで落胆させることになったはずだ。
TBSはこの糾弾会がよほど堪えたのだろう。
とにかく執拗に行われたらしい。
では、なぜ取るに足りぬ言葉を問題にして1年にもわたり9回も糾弾会を開いたのか?
一部の人たちは純粋に差別と捉えたかも知れないが、TBSの会社自体に綻び、穴を開けることも目的だった可能性もある。
とにかく団体側はTBSの上層部に何かしらの関係性を持ちたかったのだろう。
その翌年美輪明宏さんへの「ぴりっとタケロー」出演依頼があった。
だがしかし、TBSの上層部は美輪明宏さんが生本番で「ヨイトマケの唄」を歌うと聞いただけで、顔から血の気がひくほど恐怖した。
それだけ心の傷は深かったはずだ。
それによりTBSは美輪さんに二転三転の不誠実な態度を取ることになる。
現場はともかく上層部にも、美輪さんにも同情したくなる。
私達にすれば「ヨイトマケの唄」は差別の歌ではなく、差別に反対する応援歌に思えるのだが、TBSはもう恐怖に囚われて真面な考えが出来なかったのだろう。
上層部は「土方」や「ヨイトマケ」をまた問題にされたらどうしょうと思ったに違いない。
それにより「ぴりっとタケロー」で美輪さんの「ヨイトマケの唄」が聞けなかった。
TBSは暴力の影に怯えてしまった。
「ヨイトマケの唄」を放送する前だから、何も相手から非難や文句があったわけではない。
その前に相手からの文句が怖くて、せっかくの差別された人々の応援歌のような素晴らしい歌を放送しなかった。
これでは美輪さんが怒るのも仕方ない。
美輪さんにすれば、責任者出てこい!と言いたかっただろう。
しかし私もTBSの上層部の一人だったら同じようにしたはずだ。
暴力の影に打ち勝つような人はそうはいないからだ。
最後に1986年地域改善対策協議会が出している報告書にはこう書いてあった。
「差別行為のうち、侮辱する意図が明らかな場合は別としても、本来的には何が差別かというのは一義的かつ明確に判断することは難しいことである。
民間運動団体が特定の主観的立場から恣意的にその判断を行うことは、異なった意見を封ずる手段として利用され、結果として異なった理論や思想を持つ人々の存在さえも許されないという独善的で閉鎖的な状況を招来しかねないことは判例の指摘するところでもあり、○○問題の解決にとって著しい阻害要因となる」と書いてありとても分かりやすい報告書になっている。
「ヨイトマケの唄」は美輪明宏さんが魂で歌っている。
この曲を聴くと声楽がどうのこうのと言うよりも、やはり歌は魂で歌うものだとつくづく実感する。
何もこれはTBSに限ったことではない。
これとよく似た暴力の影に怯えた忖度が他の放送局や新聞社で行われていると思ったほうがいいのだろう。