この前、京都国立博物館で開かれている「雪舟伝説」展に行ってきた。
いつもの友人らと行ってきたのだが、行きすがら、雪舟をどう思いますと聞かれ、はたと返答に困ってしまった。
私は雪舟について考えたこともなかった。
だからこれといった感想もない。
仕方なく、雪舟の上手さが分からないというしかなかった。
実際、雪舟の上手さは私の様な人間には分からない。
雪舟の代表作とされる国宝「秋冬山水図」を見てもどこがいいのか理解できない。
教科書にも載っていて、誰もが知っている日本で一番有名な水墨画だ。
実物を近くで見たが、思っていたよりも小さく、え、これがという感じだった。
きっと余りにもレベルの違いがあるからと思うのだが、それでも何かこちらに響くモノがあると思って期待したが、何も届いてこないままだった。
有名な画家だからといってすべての人に良さが伝わる訳でもないのだろう。
何事にも波長が合う合わないがあるようだ。
雪舟は教科書にも載っている日本を代表する画家の一人だと思う。
何でも雪舟死後、後の画家たちが自分こそ雪舟の画風を継承すると、長谷川等伯や雲谷等顔などが争っていたらしい。
それだけ雪舟の絵が魅力的だったこともあるが、雪舟的水墨画、つまり唐絵を好まれる禅宗のお寺や、有力武家が雪舟の顧客にいたので、雪舟亡き後、その顧客を自分のモノにしょうと雪舟的水墨画、山水画をマネて、売り込んだ可能性もあったのではないかと勘繰ることもできる。
雪舟が生まれたのは、1420年である。
近代の日本画の祖とも呼ばれている円山応挙が生まれるほぼ300年前に、岡山県総社市に雪舟は生まれている。
雪舟が生まれる前の絵画はどのようなモノだったのか気になる。
雪舟の時代にはやまと絵と言われるモノはすでにあったという。
それまで絵画といえば唐絵、中国のそれも北宋、元の絵画を重宝していた。
しかしその後、中国風な絵画を嫌った、ひらがな表記のやまと絵が生まれる。
やまと絵という概念は平安時代にはすでにあったらしいが、その概念がはっきりと確立されるのは室町時代になってからだと言われている。
それまでの唐絵から、平安時代になると日本独自の優れた絵巻物4巻が描かれ始まる。
「源氏物語絵巻」「伴大納言絵巻」「信貴山縁起」「鳥獣人物戯画」等である。
鎌倉時代には「蒙古襲来絵巻」「石山寺縁起絵巻」等の絵巻物が幾つも作られていた。
いまでいう漫画の始まりのような絵巻物が、この時代に幾つも作られ、描かれていたことに驚かされる。
それも名もなき無名な人たちによって描かれていた。
このような優れた作品があるのに、絵巻は絵画と認められていないのかという疑念も湧くし、また認められていても扱いが低いのではないかと気にもなる。
やはりこの時代、屏風か襖に描いた大作でないと絵師としての地位が認められなかったのだろう。
また雪舟が生まれた少し後に、土佐光信が生まれている。
やまと絵を代表した人物だ。
土佐派は朝廷、足利氏に保護され活躍をしていた。
それに対し、雪舟は明に渡り、明の画家はもとより、宗、元の画家に興味を持ち模写をしていた。
貴族的な趣味を持つ足利氏は別として、他の武家は禅僧である雪舟の漢画に興味を覚えた。
朝廷好みのやまと絵ではなく、雪舟の漢画こそ、自分たち武家の求めている絵画だと感じたのだった。
雪舟からすればそんな意図で絵をかいていた訳ではないのだが、時代がそうさせた。
以前、千利休のことを書いたことがあったが、武家は知的コンプレックスを朝廷や禅宗僧らに対しもっていた。
その朝廷コンプレックスに対して、武家は禅宗を取り入れ、自分たちの足らぬモノを補強して対抗しょうとした。
それが後の能や茶道文化になる。
また禅宗を通して自分たちは唐の、明の最先端文化を学んで取り入れているといった示威行為を、朝廷に対してしていたのだろう。
明で学んだ雪舟の水墨画も、後の茶道の発展と共に武家に取り入れられた。
なにより雪舟は本場明で唐絵を学んできたのだ本物の山水を描ける画家だった。
それも「四明天童山第一座」と言う称号までもらってきた雪舟は、武家たちには大層な人気者だったに違いない。
もちろん雪舟は絵師だけではない、学もあるエリート僧の面もあったから尚更だった。
きっと雪舟は日本の画家の中で比較するに値する人はいないのだろう。
画家と漫画家の違いはあるが、現在でいえば手塚治虫さんのような存在なのだろうか?
急に何を馬鹿なと言われそうだけど、手塚さんの死後、日本の漫画家たちにその後も大きな影響を与える人物といえば手塚治虫さんしか浮かばない。
手塚治虫の名前はこれからますます大きくなるだろう。
後の漫画家は誰も手塚治虫の影響を受けている。
漫画家でも、漫画家でなくても、手塚治虫の偉大を知らない人はいないはずだ。
雪舟は一部の恵まれた人たちが好きな画家だったが、手塚治虫はそうではなく、子供たちに人気があった漫画家だった。
その子供たちが大人になり、科学者、経済人、政治家、官僚になって、彼らは手塚精神を世の中に与えていった。
日本人がロボットに否定的ではなく、どちらかと言えばロボット好きなのも、鉄腕アトムの影響があったからだろう。
西洋諸国では、日本人がロボット好きなのを信じられないといった声が多かったのを今でも覚えている。
現在はロボットではなく、AIだ。
そのAI技術を日本人はどちらかといえば積極的に取り入れようとしている。
海外では懐疑的な技術だが、日本人にはその感覚は薄いようだ。
これは国民性というよりも、手塚治虫さんの漫画の影響が大きい。
手塚さんはずーと前に、「火の鳥」でハレルヤというスーパーコンピューターを出して、電子頭脳というモノの危険性を予兆していた。
国民が議会で国の方針を決めるのではなく、すべて電子頭脳ハレルヤが決めることになる。
国民は神のお告げよろしく、ありがたくハレルヤの判断を受け賜る。
現在のAIの出現を予兆しているようなストリーだった。
それでも手塚治虫さんは科学に否定的ではなく、上手く私達の生活に取り入れてようとしていた人だった。
日本人が家電製品が好きなのも手塚治虫さんの影響が大きいのは勿論だ。
漫画だけではなく、もう手塚漫画は日本人の精神に根付いていると言える。
現在も、これからも手塚治虫さんを神と崇めたてる人は無くなりはしないだろう。
日本の漫画が急に萎むとも思えないし、世界に与えた日本漫画のインパクトは途轍もなく大きい。
日本人はそれまで欧米諸国から、モノマネばかりする想像力がない民族と言われていたのを、漫画の力で見事モノマネという言葉を吹き飛ばすことができた。
これも手塚治虫さんの力だし、手塚漫画を読んでいた人たちが第一線で働くことにより、科学的分野でもオリジナルの製品を出すことに成功している。
雪舟も後の画家から神のように崇められていたという。
違いは雪舟が純粋な絵画で、手塚治虫さんは漫画家だったと言うことだが、表現者にはそんのことどうでもいいことだ。
自分の世界を多くの人に認めてもらえるだけで、それだけでうれしいはずだ。
後の後継者たちが、彼等二人の業績を認め、称えいる。
伝説になった人物と、これから伝説になろうとしている人物、それだけの違いだ。
雪舟伝説に比べ、手塚伝説はまだ始まったばかりだ。
手塚治虫さんが生まれたのは、1928年、生誕100年まであと4年。
鉄腕アトムが生まれたのは1951年。
アトム生誕100年まであと27年になる。
新しい伝説がこれから始まる。
ちなみにウォルトディズニーが生み出したミッキーマウスは1928年に生まれている。
ミッキーは手塚治虫さんと同い年になるので、ミッキーマウス生誕100年まであと4年だ。
☆「雪舟伝説」を企画したように、新しい伝説として、「手塚治虫伝説始まる」展を東京博物館や京都博物館で開催して欲しいモノだ。