たばこはずっと前に止めている。

もう止めてから30年以上になるだろうか。

きっかけは健康に悪いと思ったからだが、それよりもたばこ代がバカにならない金額だと気づいたこともある。

たばこがなければ口寂しかったり、手持ちぶたさになったりするが、それでガムを噛もうとか、気持ちが落ち込むこともなかった。

ただ、そのことにより一人で喫茶店に入ることが少なくなった。

たばこを吸わなければ喫茶店に入っても間が持たないからだ。

週刊誌やスポーツ新聞でもあれば別だが、最近は置いていない喫茶店が多くなっている。

昔流行っていたジャズ喫茶も今はもうない。

スマホがあれば時間を有効に使うことが出来るが、その時はまだ携帯電話が普及していない時代だった。

それにお金を払ってまで、たばこで健康を害するのはバカげているという思いが強かった。

それよりもたばこ代を他にもっと楽しいことに利用しょうと考えていた。

 

 

きっと私はたばこの煙をふかしているだけだっただろう。

たばこの煙を肺にまで入れていなかった。

いや、入れられなかったと言った方がいい。

咳き込むような煙を肺にいれたいという気にはならなかった。

ただ私の周りが皆たばこを吸っていたので、私も皆のマネをして、カッコつけて吸っていただけだった。

不良ではない。

ただ興味半分だったと思う。

だから止めてもニコチンが恋しいという気にはならなかった。

 

そんな私でも、たばこが急に恋しくなる時がある。

口寂しいのか?

それともニコチンが恋しいのか?

私はきっとたばこの匂いが好きなのだと思う。

それもクセのあるたばこの匂いが好きだ。

周りの人達には迷惑だろうと思うけど、あのたばこの香しさは独特のモノがある。

特にドイツのゲルベゾルテは日本のたばことは違い甘い良い香りがしていた。

そのたばこの葉はトルコのターキシッュという種類だそうで、オリエンタルな、どこか懐かしい香りで人気があった。

まるでオリエンタルカレーのコマシャールソングのようだけど、何か懐かしい甘い香りだ。

 

私はこのたばこを会社の同輩に教えてもらった。

彼は版画の勉強をしていて、フランスにも留学経験があった人だった。

彼がゲルベゾルテを知っていて、たばこの魅力を私に教えてくれた。

それまでは煙たくて、辛くて苦いものだと思っていた。

しかし、たばこの煙にもふくよかな香りと甘さがあることを初めて知ったのだった。

後に葉巻も吸ったのだが、葉巻の煙は甘さを伴ったもので、ゲルベゾルテとよく似たモノだった。

またある日、おいしいカレーの店もあるからと、彼に誘われ、昼休み自転車でインデアンというカレー店に行ったこともあった。

その彼も版画家への道が捨てきれなかったのか、その後会社を辞めていった。

 

 

それ以前に、図案塾の先生からイギリスの土産だといって、たばこを何箱かもらったことがあった。

ゲルベゾルテはイギリスのたばこ、ダンヒルとはパッケージも味も、何もかも違っていた。

田舎者の私には興味深い発見だった。

日本は専売公社が一手にたばこの生産や販売を独占しているが、海外では国や会社によって、これほどパッケージや味に違いがあるとは思わなかった。

ゲルベゾルテのパッケージは、シガレットケースのように平べったくたばこが並んでいて形もデザインもいい。

ダンヒルのパッケージはその当時、まだ珍しかったハードパッケージだったが、ゲルベゾルテと比べると何とも平凡なように見えた。

これだけで、ドイツやイギリス男性の考え方や、趣味趣向が分かるような気がした。

味もゲルベゾルテの方が個性があった。

いや、癖があると表現した方がいいのだろう。

ダンヒルは洗練されたといえばいいのか、没個性と表現すべきか、記憶に残らない味だった。

日本のたばことよく似ていて、パッケージを見なければ区別がつかないだろう。

ゲルベゾルテはダンヒルとは違い、はっきりとした個性のあるたばこだった。

そのゲルベゾルテももう随分前に生産を止めてしまった。

 

私がたばこを吸い始めた頃は、まだまだ海外旅行が珍しい時代であった。

舶来品はそれだけで値打ちがあったような気がする。

今のように日本で海外のたばこをライセンス生産するなど考えられない時代だったから、海外たばこはそれだけで値打ちがあった。

たかがたばこ一つでも、見るモノ、触るモノ、食べるモノすべてが新鮮に見える年頃だから、ちょっとしたことでも心に残ったのだった。

 

たばこで想い出すのは、映画「ライアンの娘」に登場したイギリス軍将校、ランドルフだった。

彼がイギリス本島から、独立戦争前のアイルランド島に駐在してきたのだが、その荒涼とした風景をバックに、両切りたばこを銀製シガレットケースから出し、吸い口をトントンと叩きながらたばこを口にするのだが、このしぐさが私には荘厳な儀式のように見え、またとてもカッコ良く見えたのだった。

デビットリーン監督は遠くから望遠レンズで、ランドルフのたばこを吸うしぐさを撮り、彼の孤独さを浮き出させることに成功している。

 

 

きっと女性にとって、ランドルフのたばこを吸う、そのしぐさはとてもセクシーに見え、孤独なその姿は放って置けないような気になったのだろう。

でもランドルフでなくても、今ではもう見ることがない風景になってしまった。

どこかでたばこを吸おうと思っても、煙と臭いが嫌いだからと何処かへ行けと追い払われる。

もうたばこを使って女性を口説くこともできないのだろう。

 

 

私は吃音者だから、たばこが吃音を和らげるアイテムとして役立ったこともあった。

たばこを吸うことで、次の言葉を出すのに間を開けられることができるからだ。

また、たばこを吸うことで、自然に呼吸を整えていることもある。

たばこを吸うことで、言葉を続けて出すことを避けられるし、早く次の言葉を出さなければと言う強迫観念から抜け出だすこともできる。

この心の余裕はとても大きい。

それに呼吸まで整えられるのだ。

これほどのアイテムが他にあるだろうか?

 

井上ひさしさんの「吉里吉里人」でたばこをやたら吸う吃音者が登場する。

井上ひさしさんも吃音者だったから、吃りの気持ちがよく分かったのだろう。

吃りがたばこを使って吃らないように一生懸命工夫している。

登場人物にはとても大事なアイテムだったことが分かる。

そんなことが面白くおかしく書かれている小説だった。

 

 

私はたばこを捨てた。

吃音が改善したからではない。

それでも吃音を軽減するアイテムを自分から捨てた。

身体の方が吃音の軽減よりも大事だと思ったからだろう。

つまり吃音よりも、肺がんが怖い。

そう考えると、吃音の悩みもそう大したことでもないと思うのだが・・・・・

確かにそうなのだが・・・・・

でもやはり吃音の悩みは今も尽きない。