小説家と言う厄介な職業の人たちがいる。

今流でいえば物書きで、昔の言い方でいえば文士になるのだろうか。

彼等の書いたモノの多くは独りよがり、唯我独尊的な考えで文面が埋めつくされている。

 

 

時には被害妄想なのか、何かに憑りつかれたような考え方の人もいる。

普通でいえばちょっと危ない人たちに思えるかも知れない。

隣人なら近づきたくない人たちの部類にはいるのだろう。

でも社会的には一目置かれる立場の人達であったりする。

彼等ほど、自分たち物書きを優れた人種だと自惚れているモノはいないだろう。

でも反面、劣等感と妬みに苛まれ、自分ほど腐り切った嫌な人間はいないと卑下しているのも彼等なのだ。

相反する考えが一人の人間に棲みついている。

でも、それが面白い文章に表れて出るてくるから面白い。

自分たちは何処か足らない人間だ。

弱い人間だということを文章にして、公に晒すことができる人たちだ。

そういう意味では彼等、彼女たち小説家は紛れなく露出癖があるのかも知れないが、それが逆に魅力にもなっているのだろう。

露出癖といっても身体の一部を晒すわけでない、心の底の澱のようなモノを世間に晒すのである。

世の中を騒がすことでは、身体の一部よりも、心の澱のようがよっぽど危ないと思うのだが・・・・・

誰にも書けないことを正直に書いているからこそ、我々庶民にも受け入れられているのだろう。

私は嫌ではないが、家族や親せきにこのような、一癖二癖もあり、おまけに露出願望のある人間がいると困るだろう。

それこそ嫁や、夫だったらますます困るはずだ。

でもそんな困った事が過去にあったのである。

 

 

登場人物は水上強さんと、川上宗薫さんのお二人である。

水上勉さんは「雁の寺」や、「越前竹人形」、「飢餓海峡」、「五番町夕霧楼」等で有名な日本を代表する作家の一人である。

もう一人は川上宗薫さんで、官能小説で有名になられた方だが、1954年から1960年まで5回連続で芥川賞候補になるなど、将来を有望視されていた作家であった。

 

戦後間もない1948年、水上勉さんは処女作「フライパンの歌」を出す。

しかし作家への道は厳しいと諦めたのか、その後、繊維業界の広告取りから、洋服生地の行商人のようなことをして、二度目の奥さんと共に貧しい生活を送っていた。

その頃、川上宗薫さんは同じ常盤線の柏にある定時制高校で英語を教えていた。

彼の義妹と水上勉さんの二度目の奥さんとが、大分の高校、東京の短大ともに同じだったらしい。

その縁で、川上宗薫さんが、水上勉さんの家に洋服を買いに行き、知り合いの作家たちを水上さんに引き合わせたこともあった。

その頃水上勉さんの会社は倒産する。

期を限って妻を神田のキャバレーで働かせながら、1959年、水上勉さんは服の行商をしながら長編「霧と影」を書きあげた。

川上宗薫さんと、その友人菊村倒は、水上勉さんの作品を河出書房の編集者坂本一亀氏(坂本龍一の父)に紹介する。

そのおかげなのか、水上勉さんは一躍売れっ子作家になる。

川上宗薫さんにすれば、芥川賞を逃がしているとはいえ、連続芥川賞候補にも挙がっている作家としての自負があった。

しかし、自分よりと格下と思っていた水上さんが、急に売れっ子になってしまった。川上宗薫さんにすれば、いくら芥川賞候補になったからといって、先をこされた戸惑いはあったはずで、水上さんの振る舞いが、傲慢に見えるようになってしまったのだった。

このような嫉妬心は誰にでもよくあることだ。

でも、そんな嫉妬心は恥ずかしいから、相手に分からないように抑え、笑顔で相手の快挙を喜んだりするのが大人の行動だったりする。

だが小説家の人たちの中には、なぜか大人の行動ができない人がいるようだ。

 

 

1961年、川上宗薫さんは思いがけない行動を執る。

嫉妬心をそのまま、新潮6月号に「作家の喧嘩」として書き上げ発表してしまった。

川上宗薫さんからすれば、文壇的成功で先を越された自らの心情を戯曲化した作品だったかも知れないが、モデルにされた水上勉さんからすれば堪ったものではないだろう。

水上さんは流行作家になったからといって、友人である川上さんに傲慢に振舞ったことはないと思っているはずだ。

もしあったとしても、ないと信じているだろう。

これは先を越された川上さんの僻み根性と、先を越した水上さんの優越感が生む葛藤であることは確かなのだ。

だからどこまでいっても平行線、行き違い、すれ違いのまま折り合えることがない。

 

でもいくら、相手が横柄な態度にでても、それをそのまま小説にしてはいけないのだろう。

だが腹が立てば私も似たようなことをするかも・・・・・

 

水上さんは川上さんを名誉棄損で訴えると息巻いている。

川上さんは調停を作家仲間に依頼するが、すべて失敗する。

このため複数の新聞社の文化部記者に「小説に書かれたことを事実と思わないでくれ」と懇願したりしていたらしい。

自業自得といえばその通りだが、このような事になるとなぜ分からなかったのだろう。

だが話はここで終わらない。

水上勉さんが1964年9月号の新潮に「好色」を発表したのである。

この本は水上さんが川上夫婦をモデルにしている。

その小説の中には川上夫人と思しき女性の陰部に関して、事実めかした描写によって川上夫婦は大きく傷つけられた。

特に夫人は自殺まで考えた。

 

私はどちらの作品も読んではいなから、どちらの作品が酷いことを書いているともいえない。

しかし、川上さんは悪かったと後に水上さんに人を介して詫びているのだ。

だのに、水上さんは川上さん夫婦の性的なことまでを書いている。

水上さんが世に出られたきっかけは、川上さんが出版社を紹介してくれたおかげだ。

その恩義で川上宗薫さんを許していいはずだった。

だが水上勉さんは許さずにネチネチと川上夫婦を苦しめる隠微な小説を書いていたのである。

怖い。

これはもうドロドロとした怨念に支配された世界である。

こんなねちっこいサイコな人間は稀かもしれない。

それでも二人は共通の友人、佐藤愛子さんの直木賞受賞を機に和解をしている。

いくら友人の佐藤愛子さんの仲介があったからとはいえ、え~~それで仲直りするのかよ~~という気持ちしか私にはおこらない。

川上さんと水上さんは、お互いよく似た気質を持っているから分かり合えるのかな~~

これはもう我々庶民の常識では計り知れない世界というしかない。

 

ここにまた小説家に輪を掛けたけったいな人種が出てくる。

朝日新聞文芸部の百目鬼恭三郎である。

川上宗薫さんが水上さんとの和解で、作家仲間たちに調停を依頼したが、全て失敗し、そのため複数の新聞社の文化部記者に「小説に書かれたことを事実と思わないでくれ」と懇願して回ったらしい。

そのなかに朝日新聞の百目鬼恭三郎もいた。

百目鬼恭三郎はそのことを朝日新聞の匿名コラムで「世の中には変わった作家もいるものだ。自作を宣伝するためにこんなことを言って歩いている」「作家にもあるまじき卑劣な根性」と批判している。

 

 

このアホ、いやいや、そんなことを書けば私も百目鬼と同じようなアホになる。

百目鬼は「現在の作家101人」で、川上宗薫さんを「他人のへの感情が欠落し、自己中心の感覚しかもたず、好色で、小心者のくせに楽天的で、世間に対してタカをくくる癖がある」「純文学作家ポシャったのちポルノ作家として再起した」「自分の感受性だけで書いて、人間をよく見ることのできない川上の純文学は早晩ポシャル運目にあった」「およそ人間性と無縁なポルノ読み物に川上が向いていることも、また確かなのである」と書いている。

 

百目鬼は川上さんのことを「感情が欠落し、自己中心」と書いているが、まさにそれは自分のことだろうと笑うしかない。

たかが朝日新聞の文芸部記者だったぐらいで、身体一つで戦っている作家に向かって感情が欠落し、自己中心とよく書けたものだ。

自分は新聞社という鎧に守られている身であることを忘れているのだろうか?

これはもう文芸評論の枠を越えている。

個人に対する誹謗中傷、個人攻撃であるのは明白である。

それでも同等の能力が百目鬼にあればまだ許せる気もするが、何も書けない文芸部記者が同等な、いや同等以上のことを作家にもの申す。

百目鬼は自分が川上宗薫さんと同じような能力があると思っていたのだろうか?

それならとんだ自惚れだ。

能力は月とスッポンの差ほどあっただろう。

批評家は知識があっても創作者にはなれない越えられない壁が歴然としてある。

だから無理して吠えるようなことを書く。

これはもうコンプレックスの表れとしか思えない。

それも朝日新聞の衣を借りて吠えているのだ。

小心者はお前だろうと川上宗薫さんは言いたかっただろう。

川上さんの代わりに言ったのが友人の佐藤愛子さんだった。

あまりにも百目鬼の無礼さが気に障ったのだろう。

 

佐藤愛子さんは百目鬼に激怒し、「巾着切りのツェツェ蠅のインポテンツのゲス野郎め」「朝日新聞の下に棲息するネズミ」などと罵っている。

佐藤愛子さんも日頃から、新聞社の文芸部の記者等を良く思っていなかっただろう。

高い給金をもらって、好き放題のことを書いているのが気に食わなかった。

作家達はそんなぼんくら記者にも頭を下げる。

朝日新聞の名前があるからだ。

でもぼんくら記者はそれを自分の力だと勘違いする。

百目鬼が川上さんに「世間に対してタカをくくる癖がある」と書いているが、それはお前らぼんくら記者のことだと言いたかったに違いない。

こういう人はいつまでたっても自分のことが分らないアホなのだ。

 

これではブログの題名を「朝日新聞文芸部記者という厄介な人たち」に変えなくてはいけないと思ったが、それでは誰も読んでくれそうもないから止めることにした。