このまえ楽美術館に行ってきた。

私は美術館前を何度か通ったことはあったのだけど、わざわざ入って観るというほどではなかった。

興味が全くないということではないが、どうしても観たいという気持ちまではいかなかったのだ。

 

 

今回美術館を訪ねたのは、友人たちの勧めでいったのだった。

何でもそうだが、自分だけの行動範囲では新しいモノに触れることは少ない。

誰かの考え、行動を共にすることで未知の世界に飛び出す切っ掛けを作ったり、またその気持ちを後押しして助けてくれることもある。

一人では切っ掛けを作り出すことは難しいし、また自分の殻から飛び出すことも躊躇してしまうことも多い。

行動を起こす場合、誰かに感化されて初めて動き出すのかも知れない。

その様な大げさなモノだけではなく、誰かから何かしらの影響をお互い受け合うことはいいことだ。

 

私は楽焼のこともお茶の作法もよく知らない。

連れ合いがお茶と陶芸を少ししていたので、私もその影響を受けてちょっとしたマネごとをしたことがある。

でもそれはマネごとに留まっている。

 

で、楽焼のことを少し調べてみた。

楽焼は他の窯元と違い、轆轤を使わないで、手とヘラだけで器を作っているらしい。

 

何でも楽茶碗を生み出した田中家の歴代当主が作成した作品を楽焼というらしいが、他でも楽焼の製法で器を作っている窯がある。

明治期初期に廃窯になった玉水焼や石川県の大樋焼がそうだ。

この大樋焼、加賀藩の5代藩主前田綱紀が京から茶道具奉行として、裏千家4代を招いた際、楽家4代に師事していた土師長左衛門が同道していた。

4代宗室が帰京した後も土師長左衛門は加賀に残り、河北群に大樋町に楽焼の土を見つけることで、以後は前田家の御用窯として栄えている。

本家の楽焼とその流れをくんだ楽焼があるということだが、制作過程は本家と同じでも亜流は楽焼と名乗ってはいけないのだろう。

 

楽焼の歴史は古い。

天正年間(16世紀後半)陶工または瓦職人だった田中長次郎が千利休の指導により、利休の侘茶に叶う茶碗を生み出したのが始まりという。

この時にもう侘茶という概念があったらしい。

楽家はもともとは田中が本名だったが、聚楽第を建造する際に土中から掘り出した土を使ったことから聚楽焼になり、田中宗慶が豊臣秀吉から聚楽第からとった楽の銀印を賜り、これを用いることで屋号も楽になり、作る器も聚楽焼から楽焼に変えたという。

 

楽焼は黒楽と赤楽が知られている。

黒楽は素焼き後に加茂川黒石から作られた鉄釉をかけて陰干し、乾いたら釉薬をかけることを十数回繰り返し、1000℃程度で焼成する。

焼成中に釉薬が溶けた頃を見計らって窯から引き出して急冷することで、黒く変色する。

この制作過程は美濃焼と共通することらしい。

 

 

赤楽は赤土を素焼きし、透明の釉薬をかけて800℃程度で焼成した本阿弥光悦や楽入道(ノンコウ)の作品などが有名である。

利休の逸話に秀吉は黒楽を嫌い赤楽を好んだと話があるという。

 

 

楽焼の窯は登り窯に比べればずっと小さい。

これは茶碗を大量生産しないことと、焼成の途中で器を引き出すため、それに高温で焼くことを目的とした器でないためと思われる。

楽焼のお茶椀はいれたお茶が椀に浸みこむことを良しとしていて、それがまた使うほどによい味わいを与えてくれるらしい。

 

ところで千家利休は茶道の祖とされる人物だが、千家とはどのような家系なのか気になる。

利休の祖父となる田中千阿弥は堺の町衆の一人とされ、利休は祖父の名の一字を取り、千姓にしたといわれている。

しかしこれは利休の曾孫、表千家4代目千宗左が初出とされるもので、利休在命の時代にはその資料は見当たらないため確証はないようだ。

利休は名前を田中与四郎といった。

実家は堺の塩魚を扱う商店だった。

倉庫をもった問屋のような店だったというが詳しいことは分からない。

利休は今井宗久や津田宗及と並び称される茶人になる。

今井宗久や津田宗及らは堺の豪商で時の権力者も一目置く人物だったらしい。

 

 

桃山時代は茶を飲むことが権力者や裕福な人たちに流行だったようで、その茶会に呼ばれ、参加できることが彼等のプライドをくすぐったようである。

今も茶会はピンからキリまであるだろうが、それでも茶会に呼ばれること自体がステータスなのかも知れない。

ヨーロッパだったら、華やかな社交界に出るようなものだ。

その前に綺麗なドレスを用意しなければならない。

日本なら着物になるのだろう。

お茶会に出るための着物はそれなりの金額がする。

そう考えると、お茶は既に中流といっていた人たちのモノではなく、お茶会はもっと上の人たちの社交場となっていたのかも知れない。

季節にあった着物を数枚作るだけでも、ほどほどの車が買えてしまうのだから。

今も昔も私達庶民と関係のないお茶会である。

 

それでも侘び茶といって、煌びやかなお茶から、質素で素朴なお茶をめざした村田珠光というお坊さんがいた。

そのお茶を利休が完成させたと言われている。

でもこれも華やかで豪華なお茶会があったから侘びと言う言葉が出てきたはずだ。

初めから詫びさびの境地、精神を目指していた訳ではないだろう。

貧乏からやっと自慢できる地位にまで登れた人たちからすれば、もっともっと自分たちは金持ちと自慢したいはずである。

華やかな自慢大会的お茶会から、一転して詫びさびのお茶に転向した人たちは、もう自慢しないでもいい境地に達した人たちなんだろう。

しかし、実際のお茶会はそれらからかなり外れている。

これは昔も今もおなじだろう。

 

 

お茶室も庵というからには、本当は草ぶきの粗末な小さな家となるのだが、作られているモノは質素に見えても凝りに凝った技法と、貴重な部材を混ぜ合わせた建築材料で作られている。

そこから見える庭も小さいことは小さいが、これまた凝った庭だ。

 

 

庭師がいつも手を入れ続けなければ形にならない庭だ。

我々庶民ががそんな庭を維持できるわけがない。

これらのお茶室や庭を贅を凝らしたモノと言わなければ、何を贅を凝らすというのだろうと思うばかりだ。

こう考えると侘び茶とは何だろうと考えてしまう。

権力者や金持ちがお遊びでつかの間、貧乏人になった気持ちを味わいたかっただけなんだろうか、また味わおうとしたのだろうか?

でもその貧乏は偽りの貧乏で質素でも簡素でも何でもない。

 

AIで詫びさびを調べると、詫びとは寂しい、侘しいと言う意味と不足の美を表す精神らしい。

またさびは鉄が錆びるを意味し、劣化の多彩さを個性として楽しむ心を表すと答えてきた。

何とも曖昧な答えだけど、この分かったようで分からないのが詫びさびの精神なのだろうか?

 

 

これは多分に吉田兼好と鴨長明の影響を受けているとしか言いようがない。

彼等の貧しくても孤高な精神に、桃山時代の人たちは憧れをもっていたと考えられる。

その憧れは言い換えれば、当時の武士や商人たちの学問への劣等感なのかも知れない。

お茶を学ぶことで、彼等は学問へのコンプレックスを解消したかったとも考えられる。

当時漢文を読めるのは大徳寺のような禅宗のお坊さんが主だった。

戦国大名の参謀といえる人たちの中に禅宗のお坊さんがいたのは、中国の戦記物が読めたからだともいわれている。

 

利休死後、本家の境千家を千通安が継いだが、通安没後に断絶してしまう。

その後、利休の養子であり娘婿である千少庵の子、千宗旦の系統から3千家「表千家、裏千家、武者千家」が出ることになった。

 

肝心の楽家のお茶碗を見ての感想だが、初代と3代目のお茶碗はとても良かった。

特に初代は素朴さの中に気品があった。

その後の人たちの中にもこれはと思う人もいる。

でも16代も続いていると、悩んでいる人たちも多い。

いや、お茶碗を見る限り初代以外はほとんどが悩んでいるといっていい。

自分に才能が無ければ、また仕事に情熱が持てなければ家業を継ぐのは苦しいだけである。

もうお茶碗作りに七転八倒している。

茶碗を見るだけでへどが出るほど苦しんでいるのだろう。

それでも諦めずに茶碗を作り続けている。

その苦しみは計り知れない。

だけど16代も続けてこられたのは、そこに見るべきモノが存在していた。

それは確かなのだろう。

 

 

私も伝統産業、伝統工芸の担い手の端くれの一人ではあるが、私の家は今の仕事を家業としていなかったから助かった。

でも一部のお金持ちの人たちのためにモノを作っているのは共通する。

伝統工芸と言われるモノが本当にこれでいいのかと言う気もするし、あってもなくても困らない仕事であると言う気もする。

しかし楽家は500年続いている家系だから、そこに使命感のようなモノが生まれてきてもおかしくはない。

代々の当主は楽家を存続さすことが第一の使命だったような気がする。