なぜだか急に赤塚不二夫さんのことが気になりだした。
で、赤塚不二夫さんの生い立ちなどを調べて見ると、なんと赤塚さんご家族は戦中戦後の時代を、大波小波に翻弄されながらも健気に生き抜いてこられた。
私が知っている赤塚不二夫さんといえば、「天才バカボン」などの漫画を描いておられたのと、あと、愛猫の菊千代と仲良く遊んでいるところとぐらいで、プライベートなことには正直興味はなかった。
それでもタモリさんと親交があったことぐらいは知っている。
赤塚不二夫さんの漫画は楽しいギャグ漫画である。
だがそんなハチャメチャな漫画からは想像もできないような、過酷な子供時代を過ごされていた。
満州での出来事は私には想像すらできない恐ろしい体験のように思える。
子供時代にとんでもなく酷い体験をすると、あのような何もかも吹っ切れたような自由な漫画が描けるのかと思うほどだ。
でも、それは赤塚さんだから描けたので、他の漫画家が子供時代に同じような体験をしたからといって、赤塚さんのような吹っ切れた漫画を描けるとは限らないだろう。
やはり赤塚さんだからできたことなのだろうと思うしかない。
ウィキペディアによると、赤塚不二夫さんは本名:赤塚藤雄、1935年(昭和10年)9月14日に、満州国熱河省で、赤塚藤七と妻リヨの長男として生まれている。
父親の赤塚藤七さんは新潟の農家の生まれだったが、地元の小学校を経て、苦学の末、陸軍憲兵学校の卒業試験を2番目の成績で卒業した苦労人だった。
1931年(昭和6年)関東軍憲兵となり郵便検閲、鉄道警察、護衛など様々な任務についた。
しかし、1933年(昭和8年)上官の理不尽な言い分が我慢できずに職を辞し、満州国国境警備隊の保安局特務警察官として、当時、華北分離工作による世情不安に揺れていた中満国境で地帯での匪賊討伐治安維持任務や、現地人への定着宣撫工作、また抗日活動を行っていた東北抗日聯軍・八路軍などの抗日ゲリラや宋哲元・冀察政務委員会率いる国民革命軍第29軍と対峙して掃討・謀略(諜報)活動を行う特務機関員をしていたという。
赤塚不二夫さんのお父さんは満州国特務機関で、掃討、謀略などの任務を担っていた。
父親の藤七さんはとにかく厳格な人だったらしい。
漫画を読むことも禁じられ、箸の持ち方まで厳しくしつけられて、赤塚さんは父親に恐怖心に近いモノを抱くことになる。
だがその父、藤七さんも現地で宣撫工作をしていた為か、子供達にも中国人を蔑視しないように教えるなど、正義感の強い人物であったようだ。
事実、藤七さんは抗日ゲリラ側から、当時の金額で2000円(現在の金額で400万~500万円)の懸賞金がかけられていたが、現地の村人から密告されたことがなかったそうだ。
それどころか、終戦直後、赤塚家の隣に住む日本人一家が中国人の報復で惨殺される事件があったが、普段から中国人と親密にしていた赤塚さんの家族は、中国人の手助けもあり難を逃れることができた。
しかし、父、藤七さんは進行してきた赤軍によってソビエト連邦に連行され、軍事裁判にかけられて4年間シベリアに抑留された。
藤七さんは、赤塚さんが14歳になった年の暮れに、シベリアの抑留を終え、引き上げ船で舞鶴港に帰還する。
家族にすれば待ちわびた藤七さんである。
だが、シベリアの抑留生活が厳しかったのか、藤七さんはかつての威厳のある面影をなくし、以前とは全く違う人物になっていた。
シベリアで食べ物に不自由したのか、異常に食欲が強くなっていたらしく、台所を度々荒らしていたほどだった。
そんな父親の姿を見たくなかった赤塚さんだっただろうが、その頃の日本は戦争の傷を誰もが受けていただろうから、それを当たり前のように甘受できたのかも知れない
。
赤塚さんのお母さんはリヨさんである。
リヨさんは藤七さんと知り合うまで、満州で芸者をされていた。
この頃の満州で働く芸者を馬賊芸者と言っていた。
この頃の満州は清の太祖ヌルハチが生まれた土地というだけで、まだまだ蛮族的な感じが日本人にはあったのだろう。
ちなみにこの地を昔から治めていたのはツングース系の民だが、このツングース系の貊族が紀元前1世紀ごろに高句麗を建国している。
その高句麗も7世紀後半に滅びたが、8世紀から10世紀ごろにかけて、粟靺鞨と高句麗の遺民を加えた人たちが「海東の盛国」と称された渤海を建国する。
渤海が収めた地は南満州から朝鮮半島の北部だったと言われている。
その渤海が727年から919年にかけて、34回の使節を日本に送っていた。
日本では奈良時代から平安時代にかけて来ていたのだろうか。
私は渤海と言う国があったことは知っていたが、使節まで送ってきていたとは知らなかった。
ちょっと赤塚さんの話から逸れているが、渤海が今の北朝鮮の北部から中国の東北部まで広がり、その渤海が日本に使節を送っていたのには驚くしかない。
こう考えると、日本はツングースと言われる北方系の民と昔から行き来があったのだった。
そのようなまだ未開な満州の地で、赤塚さんのお母さんは気性の荒らそうな男たちを相手に芸者をしていた。
女一人でそのような地に来て芸者として働くのは、よほどの覚悟のいることである。
何か人に言われぬ事情もあったのだろう。
母、リヨさんの左腕には、お父さんとは違う他の男の名前で「○○命」と彫ってあったらしい。
父、藤七さんがそれを承知でリヨさんと満州で結婚されている。
そのようなリヨさんの過去を、藤七さんはすべて受け入れられていたのだろう。
昭和43年、藤七さんが結核に罹患された時に、リヨさんは「とうちゃんのために」左腕の入れ墨を消されたらしい。
リヨさんはまた、子供時代に眼を傘で突かれたことで片目を失明されており、義眼を入れられていた。
赤塚さんはタンスに入れられていたガラス球を義眼だと知らず、妹たちに見せて驚かせていたのをリヨさんに知られ、こっぴどく怒られたと回想している。
赤塚さんがタモリさんを可愛がられたのも、お母さんと同じように、タモリさんも片目を失明されていたのが、大きな理由だったのかも知れない。
また赤塚さんもタモリさんも、相手の悲しみを共有できる力が強い人なんだろうと思う。
1946年(昭和21年)赤塚さんたちは遼寧省西南部の葫蘆島から大発動艇に乗船し、4日間かけて6月15日佐世保港に到着した。
引き上げまでに次女の綾子はジフテリアにより死去し、末妹も母の実家にたどり着いた直後に栄養失調で同じく死去している。
弟は他家に養子に出され、後に赤塚は茨城県の常盤炭田炭鉱で働いていた弟と一度だけ再会している。
この時、赤塚さんを入れて6人いた子供達は3人になってしまったのだった。
父親をはぶいた一家は母の里、奈良で母、リヨさんが働く紡績工場の工員宿舎に入る。
赤塚さんは小学校5年生になっていたが、満州帰りと虐められたらしい。
しかし、手塚治虫風の漫画を描くことができることで、番長と仲良くなることができたらしい。
1949年(昭和24年)母、リヨさんの僅かな稼ぎでは3人の子供を養うのは困難であったため、兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられた。
中学1年生になっていた赤塚さんは新潟県に住む、母子家庭だった父親の姉に預けられている。
赤塚さんが14歳になった時に父、藤七さんはシベリアから帰ってくる。
母親をはぶいた父親と3人兄弟は父親の本籍地に移り、父親は農協職員の職を得たが、排他的な農村では、外地からの戻った持て余し者としてとけこむことはできなかった。
1952年(昭和27年)赤塚さんは中学校を卒業したが、金銭的な事情から高校進学を残念し、映画の看板を制作する新潟県の看板屋に就職する。
この時期に「漫画少年」への投稿を始める。
1954年(昭和29年)18歳になった頃、父親の頼みで上京し、父親の友人の紹介で化学工場に就職している。
その頃、「漫画少年」に投稿していた漫画が石森章太郎さんの目に留まり、石森さんが主宰する「東日本漫画研究会」の同人に参加した。
「漫画少年」の休刊後、つげ義春さんからプロへの転向を勧められる。
1956年(昭和31年)6月描きおろし単行本「嵐をこえて」でデビューする。
同年、上京した石森章太郎さんを手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。
後に赤塚さんの母、リヨさんも上京し、しばらくの間トキワ荘で同居している。
リヨさんは向かいの部屋に住む漫画家水野英子さんをとても気に入り、ことあるごとに結婚を勧めたそうである。
その当時の赤塚さんはトキワ荘一番の美男子で、シャイで穏やかな人柄だったらしい。
1970年(昭和45年)3月 母、リヨさんが不慮のガス爆発事故で入院。
その後、赤塚さんの懸命の介護や治療のかいもなく、脳死状態になり8月20日に59歳で死去で亡くなる。
1979年5月17日 フジオプロで赤塚のマネージャーをされていた父親の藤七さんが71歳で亡くなられている。
これまでが赤塚さんとご両親が辿ってきたあらましである。
赤塚さんは満州でのことが忘れられなかった。
いい想い出もあっただろうが、心の中を駆け巡るのは想い出したくもないモノばかりだったのかも知れない。
作詞家のなかにし礼さんも満州での出来事が、その後の人生をずっと苦しめることになる。
小説家の五木寛之さんは現、北朝鮮の平壌にご両親と住んおられたが、ソ連軍の侵攻により心に深い傷を負われることになる。
赤塚さんも同じように、心の中に人に言われぬ黒い塊を抱えていたことは想像できる。
その黒い塊を一時期振り切ったような感じで、誰も描けないような自由な漫画を描けていた赤塚さんだった。
きっと子供時代の辛い思いがあったことで、それが上手い具合にバネになり、堰を切ったように自由な漫画を描けただろうと考えられる。
でも、それでもいつかスランプに陥ってしまう。
赤塚さんのキャラが漫画を喰ってしまったこともあるが、心にあった黒い塊が次第に消えていったのと、また単純にネタ切れと、描く漫画が時代に合わなくなってしまったこともあったのだろう。
パッションを情熱と訳されることが多いが、激しい感情とも訳されることもある。
激しい感情とは怒りともとれる。
つまり情熱は、激しい感情や怒りでもある。
その感情は赤塚さんにもあり、なかにし礼さんや、五木寛之さんにもあったし、今もあるだろう。
怒りの感情は負の感情と思いがちだが、怒りの感情を上手く生かせば、創作意欲を駆り立てる原動力にもなりうる。
多くの創作者はこの怒りの感情を創作に上手く生かしているはずだ。
それにしても、その当時満州に行った日本人の方達は逞しかった。
当然、赤塚一家も逞しかった。
皆さん満州に根を生やそうとしていたのだ。
今の私達には想像もできないことだ。
また満州から帰還する時に、見たくもないモノを多く見せられた赤塚さんも、それをバネにして漫画で成功された。
その漫画の中に「天才バカボン」がある。
「天才バカボン」に描かれている家族は、赤塚さんが理想とした家族だったような気がする。
もしそうなら、赤塚少年は仄々とした家族に囲まれ、子供時代をゆったりと過ごしたかったのだろう。