子供の頃の遊びと言えば相撲だった。
庭に釘で円を描けば、それが簡単な土俵になる。
相撲は気軽にできる遊びで、ルールも簡単で、野球のようにグローブやバットもなにもいらない。
貧乏な子供達にはそれがよかった。
あの頃、相撲は野球と並んで人気があった。
その後も、北の湖、千代の富士、貴花田などの人気力士で相撲人気は衰えなかったが、現在はどうだろう?
一部の人達には人気があるかも知れないが、それ以外の多くの人達には、相撲という国技が異端のモノに見えだしているような気がしている。
相撲はスポーツなのか、それとも芸能の類なのか?
でも殆どの人たちは、力士がたちが土俵の上で真剣勝負をしていると思っている。
また真剣勝負を期待している。
大相撲は世界に誇れる格闘技だと思いたいのだ。
でもそうではないという見方もある。
八百長があるとされているからだろう。
昔から八百長はあるとされている。
でも、取り組み全てが八百長ではないないはずだ。
一部の取り組みで八百長があるだけで、他の全ての取り組みまで変な目で見ることもないだろう。
真剣勝負をしている力士にすれば本当に腹立たしいことだろうし、迷惑この上ないことだ。
それに八百長には厳罰を科しているはずだ。
大方の力士も八百長は悪いと思っている。
それでも八百長相撲はなくならない。
それなら、いっそう相撲をプロレスのように、もう勝ち負けに関係なくエンターテインメントに徹する方法もある。
しかし、殆どの力士たちにはそのような考えはないだろう。
自分たちの競技、大相撲に誇りをもっているからだ。
なら八百長をしなければいいのだが、八百長は未だなくならないし、原因とされる相撲協会のシステムを根本的に改善しょうとする動きもない。
相撲協会の中には、八百長やむなしという考えの人がいる為だろう。
また、今のまま何もしないで、このままの体制で生き延びていければ、それが最善方法だという考えもあるのだろう。
以前のように相撲の取り組みが待ち遠しいという気持ちがなくなって久しい。
以前はテレビの前で息を殺し、まだか、まだかと目当ての力士の出番を待っていたものである。
それが何時頃からかなくなってしまった。
きっと、それは朝青龍らモンゴル力士が増えてきてからだと思う。
彼等の取る相撲を見ていると、日本人の心に重きをおいたモノを形にした相撲と、勝つことが何よりも重きをなすモンゴル相撲とは、相容れないモノが根本にあるように思える。
彼等モンゴル人も日本に馴染もうと努力しているのは分かる。
それでも無理なモノはあるのだろう。
彼等も分かっていても血がそうさせるのだから、これは仕方ないことかも知れない。
それがモンゴル力士の強みでもあるのだから・・・・・
相撲協会も、後先を考えないで大相撲にモンゴルの人たちを入れてしまった。
大相撲の灯を消さない為に、外国の人たちを入れたことは理解するが、それ以前に相撲協会自体の改革もしなければならなかったはずだ。
日本人の子供達たちが安心して入ってくれるような、そんな改革を相撲協会はしてきたのだろうか?
していなかったはずだ。
未だに相撲部屋ではしごきやリンチのようなことが行われていると聞く。
かわいがりという集団暴行である。
過去に集団暴行で死亡者も出ている。
このような犯罪を犯している相撲協会が、弟子を集めようとしても集まるはずがない。
日本人の親御さんなど、旧態然とした相撲部屋に自分の大事な子供を預けようと考えないだろう。
だから相撲部屋の悪い噂を知らない、外国の弟子たちを遠くまで行って入れるしかない。
これはもう自分たちの蒔いた種だと思うしかないだろう。
因果応報である。
それでも角界はまだ守られている。
きっと国技として守られているのだろう。
でも、そんなダーティなイメージのある国技を守る必要があるのだろうかという気も起こってくる。
貴乃花親方が角界を去った時など、NHKも大相撲の中継を止めればいいと思ったこともある。
実際、NHKが大相撲中継をしなければ、相撲の存在はあっと言う間に国民から忘れられてしまうだろう。
プロ野球もまだ人気を保っているのも、春、夏の高校野球の中継があるからかも知れない。
だから、歴史のある大相撲だからといって胡坐をかいていれば、すぐに足元をすくわれてしまう。
もう、誰も手を出せない聖域はないと思った方がいいのだろう。
また今の世の中でそうあってほしいと願う。
大相撲の世界も今までどうり聖域にしてはいけないのだ。
「サンクチュアリ -聖域-」というドラマがネットフリックスでヒットしていたこともあったが、あのドラマのサンクチュアリの意味はなんだったのだろう。
広辞苑でサンクチュアリの意味を調べてみると、「中世に法律の及ばなかった教会などの聖域・聖所」とある。
もう一つは、「鳥獣の保護・禁猟区」であった。
私にはその二つの意味をドラマの中に入れ、組み合わせたように思えた。
もう一つフオークナーの小説で「アメリカ南部の女子学生が異常性格者に変態的に凌辱される話を中心とした筋立てで、作者の名を一挙に高めた作品」があるらしい。
ドラマの中に、ちょっと変態的と思えるようなエピソードを交えているのは、有名な小説を意識していると思えないでもない。
アメリカでは「サンクチュアリ」という言葉には、変態的な小説を指していることでもあるのだろう。
ドラマ「サンクチュアリ -聖域-」の中の相撲部屋は聖域,また禁猟区という意味と同時にデンジャラスゾーンのように危ない場所でもあった。
つまり聖域でもあり、危ない所、危険地帯のように見えてしまう。
ドラマではあるが、とにかく出てくる人たち、すべてが普通の感覚ではなかった。
内に潜む凶暴な憤怒を抑えられないまま、あちこちで暴力をふるい、周囲の人たちには鼻つまみ者と見られているからだ。
主人公も、またそれを取り巻く脇役も全てがキレまくっているのである。
彼等を不良といってしまえば、きっとそうだろう。
親から受け継ぐ性格もあるが、環境が人格を作ることもある。
でも、ドラマはそんな薄っぺらな作り方では終わらなかった。
よくありがちな、家族の犠牲の為に、主人公が不良になったような、そんなありきたりなドラマは作りたくなかったのだろう。
ドラマは親子間、夫婦間の業や性をこれでもかと抉り出している。
見せ方も執拗で、ちょっと引いてしまうこともある。
ドロドロが嫌いな人には勧められないドラマかも知れない。
ラーメンでいえば、背油いっぱいのコテコテ風だ。
見せ方が泥臭いといえば泥臭い。
しかし、またこの泥臭さが、このドラマの内容とぴったり合っているような気もする。
では試しに大相撲が本当に聖域なのかとAIに聞いてみた。
で、AIコパイロットの返事はどうか?
「相撲は伝統と格式があり、そこでの戦いは神々に捧げるものであると言われており、相撲部屋も同様に、力士たちが精神的な成長と向上を追求する場所として「聖域」といわれています」と返答してきた。
良くできた回答だ。
確かに大相撲は伝統と格式がある。
でも、今の相撲協会に格式があるのか疑問がある。
格式は消えつつあるのかも知れない。
しかし、そういう私は相撲部屋に入ったこともないし、見学したこともないから、相撲部屋がどのような処だか分からない。
また実際大相撲をこの目で見たこともない。
テレビ中継でしか見たことがないのだ。
相撲を生で観たこともない人間が、相撲をあれこれと書けないと思い、思い切って、大阪の春場所のチケットを取ろうとしたら、もう売り切れていた。
相撲のチケットの売り方はややこしい。
お茶屋が入っているからだ。
升席の良い席はすべてお茶屋に割与えられるらしい。
それも抽選になって、なかなか買えないという。
国技館では70-80%がお茶屋に割与えられ、その残りがネットなどを通して私達でも買える安いチケットになる。
歴史と伝統とはこうしたモノかも知れないがどうにかならないものかと思う。
白鳳が親方になった宮城野部屋だが、危機的状況に陥っている。
毎度、毎度のようにトラブル、スキャンダルが起きている。
しかし今回はレベルが違うようだ。
相撲協会はどう解決するのだろう。
また自分たちだけで解決できるのか?
そして、いまだ自分たちの相撲協会を聖域と思っているのだろうか?
下手をすれば、相撲協会も吹っ飛びそうな問題を抱えていそうだが・・・・・