匂い立つ人

匂い立つ人と言っても、何やら怪しい臭気が漂っている人物を指しているわけではない。

こちらが見ているだけで、いい香りが匂ってきそうな雰囲気を持った人のことだ。

本当にその人物からいい香りがするかどうかは分からない。

ただその人物を見ていると、いい匂いがしてきそうに思ってしまう。

華やかな花の香りを、辺り一面に振りまくような、そんな雰囲気を持っているからだ

 

 

だからといって、実際その人物から、本当に花の香ような、いい匂いがするのか、しないのか?

これはその人を匂ってみないと分からない。

でも、きっと花の香りのようないい匂いはしないだろうと思う。

化粧品の人工的な匂いか、それとも、もっと現実的な匂いでしかないだろう。

でも見ているだけで、いい匂いがするような印象を受ける。

 

私達は桃やイチゴ、ミカンにリンゴ、そのようなモノを見ると、自然に匂ってくるような心持になる。

テレビの画面に果物が映っていても、そのように感じる。

可愛くて、ぴちぴちした女性は、果物と同じようにいい匂いがしそうな気がするのだ。

確かに果物からは甘いいい匂いがしてくる。

だから、若い女性も甘い果物のような香りがしそうな、そんな気がする。

事実、若年女性の体臭には、金木星と桃の香りを構成する物質が含まれているという。

これはロート製薬の分析だ。

また、別の研究によれば、若々しい香りの成分として「ラクトン」という成分を発見している。

これは桃とココナッツの香りがするそうだ。

残念なことにこの香りは、10代後半をピークに減少していくらしい。

しかし、普段匂ってくるのはすべて人工的な香りばかりのような気がする。

私が若い時を考えても、今と同じような状況で、人工的な香りばかりだった。

いや、以前は作り方が下手だったのか、もっと嫌な匂いだった。

今はまだましと言っても、柔軟剤の香りやシャンプーの香り、その他化粧品の香りで、我々の生活は満ちあふれている。

時によっては人工的な香りで頭が痛くなることもある。

 

匂いを嗅ぐことは自分を守ることと同じで、動物の自己防衛本能の一つなのだろう。

だが、人工的な強い匂いでその本能が脅かされている。

他人の体臭もそうだが、柔軟剤等の香料で、家族や自分の体臭の異常に気付くことは難しい。

また食べ物の異常も、食材に含まれる香料で分かりにくくなっている。

そのせいかどうか知らないが、私の鼻は少しづつ、鈍感に、馬鹿になっている気がする。

以前はもっといろいろなモノを嗅ぎ分けられたように思うが、今は以前のような嗅覚はない。

食の楽しみは噛むことや歯ざわり、舌で味わうモノもあれば、匂いで楽しむモノもある。

しかし、それも人工的な匂いに惑わされて、食べる楽しみもなくなりつつある。

その例が、安物のハンバーグ等の匂いだ。

あの人工香料の匂いはキツイ。

食材の悪いのを、匂いで誤魔化しているのだろう。

 

若い女性たちは、自分の体臭が花の香りに近いモノなのに、人工的な香りを纏って、自分の匂いを台無しにしてしまう。

人工的な香料を付けない方が、ひょっとしたら、男性にもてるかも知れない。

その可能性は小さくないだろう。

若い時には、若い時だけの貴重な匂いがある。

その匂いをもっと武器にしてもいいはずだ。

 

私が若いときはどのような匂いがしていたのか分らないが、きっと今の加齢臭と違って若々しい匂いだったろうと思う。

いや、そう思いたい私だが、若い時から油っぽい匂いがしていたと、連れ合いに言われてしまった。

自分では分からなかったが、私は独特の匂いを発していたのだろう。

 

そんな私が言うのも何だが、若い時は、おばさま方の着物の匂いが苦手だった。

きっとタンスに入れた匂い袋の香りだったと思うが、これが辛気臭いような気がした。

また香木である白檀の香りのする扇子にも閉口した。

おばさま方が自慢そうに、ここぞとばかりに扇子を扇ぐような場所によく遭遇したからだ。

今思えば高価な扇子だったのだろうが、当時はなぜこの様なけったいな匂いをぷんぷんさせるのだろうと不思議に思ったものだった。

私はそのような時代遅れの、また腐りかけのような匂いが嫌いだった。

古びた匂いを嗅ぐと、自分まで古びて、腐っていくのではないかと思っていた。

本当はそんなことはないのだが、若い時はそのように思いがちになる。

若い時は、今の加齢臭の世代とは全く違う世界観がある。

若さがそうさせるのだから、これは仕方ないだろう。

 

今の私は若い人たちに腐りかけの爺と思われているだろう。

昔、私がおばさま方を嫌っていたのと同じように思われているはずだ。

この感覚は順送りで、誰も避けて通ることはできない。

若い時は柑橘系の匂いが自分に合っていると思っていた。

それが今は、おばさま方が好まれた匂い袋の香りに惹かれている。

年齢によって好きな匂いも変わるのだろう。

 

我々人間もそうかも知れないが、動物のオスは自然なメスの匂いを求めている。

またメスもオスの匂いを求めているだろう。

そこで交互にいろいろな情報交換をする。

私達人間はもう相手の匂いで情報を得ることは難しいだろうが、動物にはそれができる。

それもこれも健康な子を産むためだろう。

なのに人間は、人工的な匂いが多くなりすぎ、自然な匂いを嗅ぐことができない。

西洋では香水やオーデコロンは普通につけているらしいが、だからといって、自分固有の匂いを消そうとしていない。

どちらかと言えば、その人固有の匂いを大事にしているらしい。

つまり香水の匂いもいいが、その人固有の匂いが好きなのだろう。

またそれにより、相手の匂いも個性と認めている。

 

昔、京都市内で電車に乗っている時、欧米人の家族と遭遇したことがある。

その家族の一人に、可愛い少女がいた。

私より少し年齢が下だったと思う。

私はその少女の横に立って電車に乗っていた。

電車はかなり混んでいて、少女と身体が触れるほど近くになった。

横でチラッとみると、少女は人形のように可愛い。

髪の毛は金髪で、肌の色は透き通るような白い肌である。

まるで絵のような、生きている人形と表現しても大げさでないように思った。

その時、西洋の少女はこのように美しいのかと、ホント感嘆したものだった。

しかし、そんな美しい少女から妙な匂いがするのだ。

昔、小川で釣った川魚の、フナのような匂いと言えばいいのだろうか?

それとも、山菜のわらびの匂いとも言えばいいのだろうか?

そう、わらびは摘む時に、なぜか川魚のような匂いがする。

その川魚のような、独特の匂いが少女の身体からしていたことがあった。

私はその匂いは不快ではなかったが、人形のような可愛い少女が、なぜフナのような匂いがするのか?という感じはあった。

私達、東洋人にはえっと思うような匂いだと思うが、彼等には当たり前の感覚なのだと思う。

それに、自分の匂いは自分だけのモノとして大事にしているはずだ。

匂いだけではなく、他のマイナスと思われがちな性質も、個性として家族は受け入れているに違いない。

我々日本人が使う個性という言葉には、何か空虚感があるが、彼等西洋人には確固としたモノが生活の中に根付いているのだろう。

 

私もそうだが、日本人はできれば体臭を消そうと考えている。

それはどこか病的にも思えるほどだ。

生きていれば、肌や毛穴、また汗からからいろいろな分泌物が出てくる。

それらが混じって、匂いを出している。

でもそれらは生きている証のような気もするのだが・・・・・

 

分からないのは、中学校、高校と男女共学だったが、女の子たちから金木犀やら、桃の香りに近い匂いがしてきたことはなかった。

また高校時代、親しくしていた女の子からも、そのような匂いがしてきたこともなかった。

これはどういうことだろう?