今回は病気についてのブログだが、吃音は病気なのだろうかと悩んでしまう時がある。

当事者であっても、吃音が病気であるような、ないような、よく分からないのだから、周りの人たちは更に理解不能なのだろう。

で、マイクロソフトの生成AIコパイロットに、吃音は病気かどうかきいてみた。

コパイロットの答えでは、吃音は病気ではないそうだ。

発達障害の一種だという?

最近は吃音が発達障害の一つとして位置付けられているらしい。

吃音のことは、以前はよく分からないとされていたが、少しは分かってきたのなら、それはありがたいことだ。

 

 

でも、発達障害も病気のような気がするが?

発達障害でも何でも、病気でなければ病院にいかないですむが、発達障害以外の障害を持っている人たちも病院で治療しているはずだ。

であれば、発達障害も病気のような気がするのだが・・・・

その辺の線引きが私には分からない。

それに、発達障害は国民健康保険で治療できるだろう。

それがなぜ病気でないといえるのだろう。

障害者が病院で受けるモノは治療ではなく、リハビリになるのだろうか?

でも実際は治療もしているのだ。

これはやはり障害という言葉と、病気と言う言葉の意味がややこしくしているのかも知れない。

それは当事者や現場で働く人たちの考えとは関係なく、周りの関係者がああでもない、こうでもないと迷っているからだろう。

当事者は発達障害が病気でも、障害でも、また昨今言われている個性でも何でもいい様な気がする。

しかし、個性という言葉は、吃音には少し軽すぎると思わないこともない。

また病気なら、治る可能性もあるが、障害となると、もう治らない可能性の方が大きい。

だから専門家は発達障害を病気ではなく、障害と捉えているのだろう。

そう考えると複雑な気持ちにもなる。

 

吃音者が障害者として生きている例は稀だ。

吃音者が障害者として生きることに抵抗があるからだろう。

また吃音者の多くは、吃音を治せるモノと思っているし、そう信じている人ばかりだ。

だから吃音を障害と思っていない。

少しは思っているかも知れないが、障害としてくくられてしまうとやはり反発心も湧く。

吃音は治せる病気と思っているのだ。

また思いたい。

殆どの障害は定まった生きづらさを抱えているだろうが、吃音の場合は場所や、対する相手によって、それどれ出る症状が違う。

強く出たり、出なかったり、自分でも分からなかったりする。

また吃音を隠せる人は、隠して生きているから、なかなか分かりづらい。

だから世間ではドモリぐらいで、障害者だと、大げさなといった雰囲気もあるかも知れない。

私も障害者と自分を認めるには抵抗があるが、それでもどうしょもなく生きづらい人たちもいる。

そのような人たちは障害者として生きていいはずだ。

そのことについて誰も文句は言えないだろう。

しかし、役所は吃音者が障害者申請しても、すんなり受け付けてくれない。

吃音が酷い時のことを誰も知らないからだ。

またそのような恥ずかしいことを他人には知られたくない。

 

私はある人の相談にのったことがあった。

その人は吃音で障害者になるのを諦めて、他の障害で障害者手帳を手にした。

つまり吃音で心を病んだことにしたのだった。

事実、彼は心を病んでいた。

半分生きることを諦めていたように思う。

それでも障害者手帳を必要としていた。

まだ生きたかったのだろう。

それにしても、吃音者が障害者として認められることは難しく、吃音よりも、心の病気での方が、障害者として認められることが多い。

吃音者として、このことをどう理解したらいいのだろう。

偽の吃音者がいると思われているのだろうか?

でもそれなら、偽の心の病の人たちもいることになる。

でも、そのような人たちが本当にいるのだろうか?

そこまでして障害者手帳を取得する人も少ないだろうし、また障害としては一番軽い等級である。

 

最近よく分からない病気を全て発達障害にしているが、吃音まで発達障害の一部に入ってしまった。

ホント、最近どれもこれもが発達障害にしてしまっている。

これでいいのだろうかという気にもなってくる。

Microsoftの生成AI、コパイロットに吃音のことを聞いてみると、脳の言語処理や、運動制御の調整に関わる神経機能の異常であると答えてきた。

私が吃音者団体で勉強していた時には、自分が発した言葉と、耳から聞こえてくる言葉に時間差があり、そこで齟齬が起きて、吃音の症状が出ると言われてきた。

健常者と吃音者を比べた場合、発した言葉と、聞こえてくる言葉に、吃音者は時間差がないと言われている。

それではと、アメリカでは聞こえ方を少し遅らせてやれば、吃音の症状も改善するだろうと考えて、聞こえ方を遅らせる装置を作った人もいる。

そこで出てきたのが、DAF(遅延聴覚フィードバック)とFAF(周波数変換フィードバック)などの装置である。

だがしかし、その前にまず声が出なければどうにもならない。

吃音者はその一言がなかなか出てこないこともある。

また朗読の等では改善することもあるが、他者とのコミュニケーションでは、装置を使用しても改善することは少なかったらしい。

吃音者の頭はそのような装置では騙されないのだろう。

吃音の改善はそれほど簡単でないということだろう。

吃音は心の問題でもあるのだ。

心のダメージが脳にも影響していると考えている専門家もいる。

この場合どちらがタマゴで、どちらが鶏の議論にもなってしまう。

また、従来からの吃音症状がある人よりも、発達障害などで吃音の症状でている人の方が、薬物療法を用いることで、吃音の改善が図られる場合があるようだ。

発達障害の枠に吃音を入れたおかげで、ますます問題はややこしくなり、複雑化してしまったように傍からは見えてしまう。

 

 

ここまで吃音のことを書いたが、吃音でない病気も私はもっている。

別に病気自慢ではないし、自慢するつもりでもない。

誰でも一つや、二つ病気を持っていて、その病気と上手く付き合っているだろう。

大きな病気でなくとも、小さなちょうとした病気でも嫌なものだ。

健康が何よりである。

そうはいっても、人間生きていれば病気はつきもの。

だから騙し騙しの生活になってしまう。

私もその病気と長年の付き合いになる。

吃音も深刻な病のような気もするが、傍から見れば、別の病気の方がもっと深刻なのだろう。

でも私は吃音があることで、この病気を忘れることができていた。

それでも、うっすらと私は長く生きられないと思っていたこともある。

父親が同じ病で、また吃音もあった。

3人いる男兄弟だが、私だけが二つの病を父親からもらってしまった。

父からはもう少し良いモノを譲ってもらいたかったのだが、こればっかりはしょうがない。

今まで私は父よりも長く生きられるか、それが最大のテーマでもあったような気がする。

そして何とか父よりも長くいきることができた。

私のような病気があっても、適度な運動と規則正しい生活していれば、病とも共存できるのだろう。

吃音のストレスと、仕事のストレスに晒されながら、良くこれまで生きてこれたと思っている。

まぁこれも誰かのおかげなのだろうが、それを素直に書いてしまうと後が怖いので、書かないことにする。