人間生きていれば、どこかで無駄お金の遣い方をしなければならない時もあるし、またそのことが厄払いにもなると聞いたことがある。
つまりお金は誰のモノでもないから、独り占めするなということだろう。



でもお金を持っている人たちは、今持っているお金が減ることを嫌う。
それも極端に嫌うようだ。
貧乏人はないお金を無理をしてでも使わなければならいこともあるが、金持ちはそれも嫌がったりする。
お金を持つとその様な気持ちになるのだろうか?
私は持ったことがないから分からないが・・・・・・・
それでも、使う時はぱーっと使った方がいいはずだ。
だがお金持ちはそのような気持ちにもならないようだ。
一度お金を持ってしまうと、少しでもお金が減るのが嫌なのだろう。
人間持つモノを持ってしまうと、それを維持することだけが目的になってしまうらしい。
でも、どうせ使うなら未練たっぷりな感じでお金を使うよりも、威勢よく使った方が見栄えもよいように思うだが。
何故かお金持ちになると、違う世界にいってしまって、周りの事が見えなくなるようだ。
お金だけしか見えていないのだろう。
だから消えたお金に何時までも未練が残ってしまう。
そういう人を見ているのはこちらが辛い。
そうかといって、金持ちが貧乏人のように、少しのお金を使うだけで、明日のご飯が食べられないような切羽詰まった顔をしてほしくない。
それは貧乏人だけの特権である。

昔の人の話になるが、一見無駄遣いと思われたいたことも、実は無駄ではなかったということが多いようなのである。
綺麗に未練なく使うことによって、無駄と思われていたお金も生きるらしい。
よく生きたお金と、死に金と言う表現があるが、昔の人たちはお金の使い方をよく知っていたのだろう。
お金の使い方でその人物の評価が決まると言うから、使い方も考えなければならない。
お金は誰にも回ってくるが、使い方が難しいようだ。
お金の使い方で、その人物の隠されたいたモノが見えてしまうことはあるからだろう。
だから使い方で、人柄や器の大きさも分かる。
ホント、お金の使い方でその人物が理解できるし、生まれ育ちまでも分かるような気もする。
つまり、使い方で人間の品格が試されるのだろう。
私は少しのお金を貰っただけでも有頂天になるほうだから、器としてはかなり小さめである。
それでも持ちなれてない大金を、一度持ってみたい気もするのだが・・・・・

無駄遣いをするにも時期があるようで、その時期を逃すと厄介なことになるらしい。
つまりコツコツとお金を貯めていても、人間どこかで無駄な使い方をしてしまうことがあるからだ。
お金が減ることを極端に嫌っているのに、何故だか魔が差して馬鹿な使い方をしてしまう。
それも生きたお金の使い方ではなく、死に金のような、もったいない使い方をしてしまうことがある。
いや、私がそう書くと無駄遣いをしたことがあるように思われそうだが、無駄遣いをするほどお金を持ったこともないし、そうかと言ってお金をコツコツと貯めたこともない。
何も持っていないただの貧乏人だ。
そんな貧乏人がこんなことを書くのはおかしいのだけど・・・・・

昔から室町や西陣の旦那衆たちは茶屋遊び等をしていた。
祇園や上七軒にでかけ、舞妓や芸子と遊ぶのである。
それらは無駄なお金の使い方だと思いがちだが、そうでもない様なのである。
そういう処で遊んでおけば、後々馬鹿なことをして、店を傾かすようなことは少なくなるという。
たまに放蕩息子もいるが、それは稀なことであるらしい。
茶屋遊びでそれなりのお金を使っておけば、後に株や博打で大金を失うこともなく、遊びでも何でも、お金とはこの様なモノだと変な夢を見ないですむということなのだろう。
お茶屋は色恋だけではなく、お金というこの世で一番怖いモノを学ぶ所なのだ。
だからできるだけ、若い時に遊び方と、お金の使い方を教えてもらう。
若い時に遊んでおけば、後になって色ぼけをすることもない。

人生黄昏時になると、色ぼけを起こす人が案外多い。
真面目に生きてきた反動といっていいのだろう。
人間何処かで帳尻を合わせようとするのかも知れない。
当人は辛抱、辛抱で今まで生きてきた人だから、色恋に大きな夢を持っているのだろう。
それは幸せといえば幸せなのかも知れない。

しかしそこに大きな落とし穴があったりする。
歳をとってから、思わぬ落とし穴に落ちて、大事なお金を誰かに巻き上げられてしまう場合がある。
これは私達庶民でも同じだ。
長年我慢していたことは、いつか出口を求めて弾ける。
これが世の常である。
そんな記事が新聞によく出ている。
上手い儲け話に誘われて、大金を巻き上げられたり、ロマンス詐欺に遭ってしまった人たちだ。
いやそれでけでなく、素人のおばさま方が、お金を持っているお年寄りの後妻になることもあるらしい。
お年寄りの家、財産を自分のモノにしょうと、打算で結婚する人も少なくないというのだ。
何か寂しい話だ。

このような真面目に生きてきた人たちは、お金を多く持っていることで、安心する人たちに違いない。
老後の為に無駄遣いをせずに、せっせと今までお金を貯めていたのだろう。
誰かの世話にならぬように、自分で出来ることはできるだけする。
そのような真面目な生き方をする人たちである。
でもその人たちにも誘惑は幾つもあったはずだ。
お金を使いたい誘惑であり、もっとお金を増やしたい誘惑でもある。
時には義理を欠いたこともあっただろう。
それでも辛抱して使わなかった。
私は少しでもあれば、お金を使いたい方である。
だから貯められないのであるが・・・・・
その誘惑を彼等彼女達は一つ一つ打ち消していったのだろう。
お金を貯められる人たちは、そこが貯められない人たちとは違う。

ある程度お金が貯まると、使わなくても我慢できるらしい。
余裕があると、モノを欲しく無くなるのだろう。
言い換えれば金が無いから、モノが欲しくなるのかも知れない。
いつでも買えると思うと、余裕がでる。
私もそのような気持ちになってみたいモノだ。

だからお金が貯まったのだった。
私にはお金がないから、彼らの気持ちはもう一つ分からないが、余裕ができて、その余裕が安心に繋がったのだろう。
でもその安心が危機に繋がってしまうのだ。
ずっと辛抱してきた人間は、何処かでお金の力を試したい誘惑が起こるのだが、それが危ないことだとは当人も思っていない。
お金は使う当人だけではなく、周りの人間も誘惑してしまうから危ない。

お金の無い人と、お金のある人とはお金に対する考え方が違うのは当たり前だ。
お金の無い人はお金にいつも縛られているが、お金の力をそれほど信用していない。
でもお金のある人間はお金には縛られていないが、お金の力を信用している。
お金で人の心までは奪えるとまでは思っていないが、人を自由に動かせるとまでは思っている。
本当は心まで動かせるかも知れないと思っているはずだ。
思いたくないけど、本音は思っている。
だから、お金の力を知っている人は寂しい。
とても寂しはずだ。

金を持っていても寂しいし、金が無ければ腹も減るしモノ寂しい。
自分の魅力で人が寄ってくるのではなく、お金の力で寄ってくると思うのも寂しい。
人は何時も無い物ねだりをするのだろう。
お金がなければ億万長者に憧れるが、いざなってみると、自分に寄ってくる人間が全てお金目当ての人間に見えてくるのかも知れない。
それでまた、お金で力で人の心まで牛耳ろうと足掻いてしまう。
知らぬ間に、お金に心を売り渡した怪物になってしまうのだ。

お金を持つことと、人品が比例する訳ではない。
金持ちで品がある人もいれば、卑しい人もいるだろう。
卑しい人がただの金持ちだけならいいが、会社経営などしていたら、ビックモーターの事のようになるのかも知れない。