「月さま、雨が・・・」は新国劇の「月形半平太」での有名な舞台の台詞である。
月形半平太は行友李風によって創りだされた架空の人物であるが、モデルは桂小五郎と言われている。



桂小五郎、後の木戸孝允が、血なまぐさい京の街で、舞妓、雛菊と連れ立って歩くことなど考えられないが、でも芝居ともなれば、これような色っぽい出来事も入れなければならないのだろう。
舞台では舞妓、雛菊が「月さま、雨が・・・・」と傘を差しかけたとき、月形半平太が「春雨だ濡れて行こう」と返すのである。
役者への掛け声と共に、劇中とても絵になる場面だ。
このように仲睦まじく、雨の中を二人の男女が並んで歩く姿を描いている映画や小説は数多い。
調べてみれば歌謡曲でもあった。
その中にちょっと面白い曲があったのでここに紹介する。

「雨の中の二人」 宮川哲夫作詞

雨が小粒の真珠なら
恋はピンクのバラの花
肩を寄せ合う小さな傘が
若いこころを燃えさせる
別れたくないふたりなら
ぬれてゆこうよ 何処までも

好きとはじめて打ちあけた
あれも小雨のこんな夜
頬に浮かべた 可憐なえくぼ
匂ううなじもぼくのもの
返したくない君だから
歩きつづけていたいのさ

夜はこれからひとりだけ
君を返すにゃ早すぎる
口にださぬが思いは同じ
そっとうなずくいじらしさ
別れたくないふたりなら
濡れてゆこうよ 何処までも
何処までも 何処までも

この詞を読むだけなら、若い二人が一つの傘で仲よく雨の中を歩いている様子が浮かぶ。
どこがどうのという変わったところのない、昔の歌謡曲らしい詞のように感じる。



作詞した宮川哲夫さんは、鶴田浩二さんやフランク永井さんの曲を作詞されている。
鶴田浩二さんが歌った曲では「街のサンドウィッチマン」「公園の手品師」「赤と黒のブルース」等がある。
戦後の混乱期の希望と虚無感が混ざり合ったような詞が多い。
鶴田浩二さんはこれらの作詞を「宮川ニヒリズム」と評していたようだ。
でも「雨の中の二人」の詞ではニヒリズムなど何処にもない。
ただただ詞の底に見え隠れする、恋愛もどきの欲望が男性側に感じられるだけだ。
ただこの歌を橋幸夫さんが歌っていたことで、ギラギラ感が感じられない。
男性はあわよくば雨宿りと称して、女性をホテルにでも連れ込もうと思い描いて歩いている。
つまり下心も、下半身もいっぱいで張りつめている。
でも橋さんが、青春歌謡ぽく歌っているので、エロエロドロドロ感は薄まっているのだった。

よく似た曲がもう一つある。

「恋のしずく」  安井かずみ作詞

肩をぬらす 恋のしずく
濡れたままでいいの
このまま歩きたい
きっとからだの 中までしみるは
そしてあなたの あなたの言葉を
忘れないようにしたいの

頬をぬらす 恋のしずく
あなたの せいなのよ
私のためにだけ
それはふたりの 愛のしるしね
だからやさしい やさしい心を
じっと抱きしめていたいの

髪をぬらす 恋のしずく
やさしい手がふれると
青空が見えるの
そうよあなたは 太陽なのね
だから私は 私はいつでも
あなたを愛していたいの

この詞は雨の中を歩く二人を、安井かずみさんが女性の視点で書いている。
先の「雨の中の二人」は、男の視点で同じようなことを著わしている。
安井さんの詞も、宮川さんの詞も、恋人たち二人が、雨の中を濡れながら歩いている状況は同じである。
先に発売されたのは「雨の中の二人」1966年1月15日で、「恋のしずく」の発売は、その二年後の1968年1月20日だった。



「恋のしずく」は伊東ゆかりさんがしっとりと優しく、歌の主人公になり切って歌っていた。
安井かずみさんの感性は瑞々しい。
自分の身体の内からでた感情を上手く詞に表している。
女性でないと書けない詞だ。

一方宮川哲夫さんも、官能的な表現を詞の中に入れようと努力しているが、どうしても無理がある。
男性には安井さんのような詞は書けないようだ。
安井さんの身体の細胞には、すべて心があるのではないかと錯覚をしてしまうような、生命感が溢れたすばらしい詞である。
でも男性の視点でみれば、宮川さんの詞も悪くはない。
無骨であり、誠実さを見せようと頑張っているが、それよりも欲望が先に立つ、そんな何処にでもいる男性の心情を上手く表している。
例えば「雨が小粒の真珠なら、恋はピンクのバラの花」
これって、どうなの?となってしまう。
男が無理をしてロマンチックな表現をすれば、こうなるという、見本のような詞になっている。

安井さんの詞を読めば、女性側も受け入れ態勢が充分なのは分かる。
雨の中の二人は言葉には出さないが、心も身体ももう限界点に達するほど燃え上がっているのだろう。
でもなかなか適当なホテルが見つからず、歩き続けるしかない二人なのだ。

宮川哲夫さんと安井かずみさんは、理想とはかけ離れた若者たちの姿を、映画のような綺麗な歌謡曲にする手腕はすごい。
特に安井かずみさんの詞は、時代に関係なく、今後も私達を楽しませてくれそうだ。

最後に桑田佳祐さんの「恋人たちも濡れる街角」である。
この曲は桑田さんが「雨の中の二人」「恋のしずく」に影響を受けただろうと思っていたが、調べてみると、桑田さんはクールファイブの「恋は終わったの」をイメージして作ったらしい。

「恋人も濡れる街角」  桑田佳祐作詞

不思議な恋は女の姿をして
今夜あたり 訪れるさ
間柄は遠いけど お前とはOK 今すぐ
YOKOHAMAじゃ 今乱れた恋が揺れる
俺とお前のまんなかで
触るだけで感じちゃう
お別れのGood-night 言えずに

ああ つれないそぶりさえ
よく見りゃ愛おしく思えてく
ただ一言でいいから
感じたまま口にしてよ
愛だけが俺を迷わせる
恋人も濡れる街角

港の街によく似た女がいて
Shyなメロディ口ずさむ
通り過ぎりゃいいものを
あの頃Romance 忘れず
ああ時折雨の降る
馬車道あたりで待っている
もうこのままでいいから
指先で俺をいかせてくれ

愛だけが俺を迷わせる
恋人も濡れる街角
女ならくるおしいままに
恋人も濡れる街角

この詞は先の二つの詞とは大分趣が違って、分かりにくい。
また迷わすような詞をあえて書いたのだろう。
それと共にいろいろな解釈ができる。
私としては田舎の悪ぶった兄ちゃんが、横浜の馬車道に来てみたはいいが、街角を歩く素敵な女性に委縮してしまい。ナンパもできずに、ただただ妄想に耽っている図が見えてしまうのだが・・・・
桑田さんの詞はなかにし礼さん等の作詞家とは違い、現実と妄想が上手く混ざっている点だ。



そしてまた巧みな言葉遊びがあちこちで散見できるのが面白い。
実生活で体験して生まれ出てきた言葉ではないモノが混じっているのだろう。
だがそこが、何故か同じ年代の若い人たちに受けたのだろうと思う。
曲も新鮮で良かったことも確かだが、自分たちの生きざまと同じように、桑田さんの詞と曲も何処か背伸びをしているようなモノを感じ、それに同世代の若者たちが共感したのかも知れない。

桑田さんの曲で凄いと思ったのは、「私とピアノ」である。
あの曲でこの人はとんでもない才能をもっていると思った。
綺麗な旋律をピアノが奏でる中で、高田みずえさんがとんでもないことを歌うのだ。
まさかアイドルが・・・・
誰もがそう思っただろう。
今までの歌謡曲で「私とピアノ」のような曲はなかったはずだ。
あの川内康範さんも桑田さんの「私とピアノ」を聞いて、口をあんぐり開けたに違いない。
それほど衝撃が大きい曲であった。

三人三様、雨の中の恋人たちを描いているのだが、それぞれ違う。
共通していたのは、雨の中で濡れることであった。
でもそれぞれ思い々いの濡れかたがあったようだ。

月形半平太と雛菊はどのような気持ちで春雨に濡れたのだろうか?