今回のブログの題名は喜悦の歌声と書いた。
歌い手自身が喜びを感じて歌っているように、歌声が聞こえるという意味である。



私は喜悦の歌声と書いてはみたが他に、歓喜や、又は恍惚や愉悦、悦楽等よく似た意味の言葉がある。
しかし、果たしてそのような言葉が当てはまる歌手がいるだろうかと言う疑問も湧いてくる。
つまり私は感極まった時の様な声を出す歌手を言っている。
この様な事を書くとファンの方からお叱りを受けるかも知れないが、歌手の良し悪しは、正にそのような特徴を持っているかどうかで決まるのではないだろうか?
つまり営業サイドはそのような独特な声の持ち主を求めているだろう。
特にピンク色の声の持ち主は大きな武器を持つことになるはずだ。

先に恍惚の歌声と書いているが、青江三奈さんのことを私は言っている訳ではない。
今の方は青江三奈といっても、ご存じの方は少ないだろう。
昔の歌謡曲「恍惚のブルース」を歌っていた方である。
ブルースといっても、淡谷のり子さんの「別れのブルース」のように、和製のブルースである。
ジャズ歌手のヘリン・メリルぽく見せるため、髪の色や服装を真似ていたが、歌い方や内側から出るムードが、どうも沢庵ポリポリのお茶漬けの味のように見えていた。

川内康範 作詞、浜口庫之助 作曲の「恍惚のブルース」は、淡谷のり子さんの「別れのブルース」と違い、ど真ん中のド演歌である。
ヘリン・メリルの髪の色と衣装を真似、声もハスキーでヘリン・メリルぽく唄うのかと思いきや、彼女はド演歌を唄うのだ。
言い方は悪いがまるでコントの一場面のようだった。
このギャプが面白いと思えば面白い。
歌声だけだったら阿川泰子さんがヘリン・メリルによく似ている。
でもそれは似ているだけに終わってしまったように思う。
声はよく似ていたのに何処がちがっていたのだろう。
阿川さんの歌声は確かにヘリン・メリルそっくりだった。
しかしヘリン・メリルのゾックとするような獣臭に似た声に、色気を感じることはあっても、阿川泰子さんの声に魅力を感じることはなかった。
阿川さんはハスキーであったが、声に灰汁がなく綺麗すぎたのだった。
逆に青江さんの声は同じくハスキーであったが、歌声にジャズの匂いのようなモノはあまり感じなかった。
自身泥臭く見えるようにしていたのだろう。
その結果、彼女を見ると夜の酒場の匂いと、沢庵の味の様なモノが同時にしてきそうに感じるのだった。
彼女の風貌が多分にそうさせていたのだろう。
青江さんは不器用だったのかも知れない。
それが逆に彼女のオリジナルになっていったのだろう。
不思議なモノで、何でも器用に出来るのも武器だが、不器用も時には武器になる時があるようだ。

でも青江さんは喜悦でも恍惚の歌声の歌手でもなかった。
阿川泰子さんもそうだった。
それに比べ、ヘリン・メリルは押し殺した声で、恍惚の歌姫になっていた。

私がなぜそのような表現をするのかというと、歌い手は私達庶民の恨みや喜びを素直に歌にして届けてくれるからだろう。
森進一さんや八代亜紀さんなどは、私達の怨念を解放してくれるような声音を持っている。
森さん、八代さん、お二人は擦れた声を振り絞り、何かに懇願するような歌い方をしている。
金にも権力にも縁のない人たちは、森進一さんや八代亜紀さんの恨みを抱いたような歌声に共感したかも知れない。
声の奥底に怨念のようなモノを感じた人もいただろう。
森さんの方は節回しが何か拝み節のようにも聞こえたり、また恨み節に聞こえたりするのだった。
それがまた良かった。
でも森進一さんは初めスクールメイツにいて、その時は美声であったらしい。
それでは芽がでないよと、アドバイスしたのがバンドマスターのチャーリー石黒さんだった。
森さんの美声を演歌に合うように声を潰させたのだった。
森進一さんも思い切ったことをしたものだ。
ここで森進一さんと「恍惚のブルース」を作詞した川内康範さんとの確執を想い出す。
川内康範さんは月光仮面や七色仮面の原作者としても有名な方だった。
森さんの「おふくろさん」の作詞を手掛けていたが、おふくろさんのイントロ部分に、森さん側は川内さんに無断で文章を書き足したのである。
これが俗にいう「おふくろさん騒動」であった。

私が感心するのは森さんの売り出し方である。
これには誰も頭を痛めたと思う。
素晴らしいのは作曲家の猪俣公章さんの、森進一さんへの指導方法である。
あの独特の絞り出すような歌唱方法をよく考え出したものだと思う。
全くのオリジナルといっていいのだろう。
初めはゲテモノとよく言われていたらしい。
確かにゲテモノぽいけども、美男子だったから、それも面白いと許されたのだろう。

「恨み節」といえば梶芽衣子さんだった。
映画監督タランティーノも大ファンの方だ。
「恨み節」も彼女のような冷たい感じで歌われると、逆に怖さが魅力的に思えてしまうのだった。

貧困の恨み節もある。
「釜ヶ崎人情」や「浪曲子守唄」に「昭和枯れすすき」等だ。
「釜ヶ崎人情」は歌う人によって味が異なる。
落語家の桂ざこばさんの「釜ヶ崎人情」は絶品と何度か聞いたことがある。
私は聞いたことはない。
残念だ。
仲間内だけの芸なのだろう。
ざこばさんの「釜ヶ崎人情」を聞いてみたかった。

私が好きなのは三波春夫さんの「チャンチキおけさ」である。
初めこんな歌が何が良いのか分からなかった。
また三波春夫さんの偉大さも分かっていなかった。
しかし何度か聞いているうちに、その良さが分かってきた。
まさに庶民の哀歌なのである。
聴いているうちに昭和30年代の当時の雰囲気が手に取るように分かるのだ。
それは昭和30年代にタイムスリップしたような感じなのである。
そうするとこの歌と、三波春夫という方のとんでもなさが次第に分かってくるのだった。
三波春夫さんはただの浪曲師ではないことが分かる瞬間だった。

日本の歌手の方々には浪曲師から転向した人も多い。
その人たちには独特の語り口と、リズムがあるように思う。
西洋から入ってきた今の歌い方と明らかに違う。
私達が知らない歌唱方法だ。
それがまた魅力だった。
聴いているうちに、浪曲は日本のブルースのようなモノなのだろうか?
私はそう感じてしまう。
虐げられて人々の哀歓を歌い上げたモノがブルースなら、浪曲もまたブルースと言えるのかもしれない。
ブルースはアコースティックギターの伴奏が基本だが、浪曲は三味線であることも何処か似ているような気がする。
また浪曲は韓国のパンソリにも似ている。
パンソリの歌い手は地の底から湧いて出てきたような声音で唄う。
怖いようなぞぞけるような独特の歌声である。
ツングースの人たちの呪詛のようなモノが混じり合っているのだろうか?

演歌と言われるものには、艶歌と書くモノや、怨歌と書くモノもあっる。
厳密に艶歌を解説すれば、明治中期ごろの自由民権運動の壮士たちが演説代わりに唄った歌であるそうだ。
でもそんなこと誰も知らない。
ほとんどの人たちは演歌の一つのジャンルだと思っている。
艶っぽい演歌が艶歌でいいのである。
演歌の歌手には艶っぽい良い声の人がいる。
また演歌歌手でない方にも魅力的な歌声の人がいる。
その方たちも充分色っぽいし魅力的だが、彼女たちは前面に色っぽさを出している。
分かりやすくていいのだが、もう一つピンとこない。
先ほども書いたが、もっとエロっぽく際どい歌手の方がいたこと見つけた。

それが喜悦の歌声の人である。
まさかと思ったが、その人は松田聖子さんであった。
私がこのように書くと、ファンの方は何をと怒られるかも知れない。
でも私には彼女が恍惚の極みに達しているような声で歌っているように聞こえてしょうがないのである。
松田聖子さんは全くそのような気持ちで歌っていないことは、充分解っていて書いている。
松田聖子さんにすれば歌唱方法を一生懸命勉強し、レッスンしての結果の歌声である。
自分から進んでエロい歌い方をしている訳ではない。
でも、でも、でも、彼女の声音は超エロっぽいのである。
この様な声音の方はそうはいない。
歌手で美声の方は多くいるが、突き上げるような喜悦の声を出す人はそうはいない。
天性のモノである。
松田聖子さんの歌声は正しく恍惚の声といっていい。
彼女の歌声は何処をとっても、絶頂期のアノ声に思えてならないのだ。

松田聖子さんと少しタイプは違うが、畑中葉子さんと言う歌手の方がいた。
平尾昌晃さんとデュエットで「カナダからの手紙」を歌っていた人だ。
この人も声音が色っぽい。
松田聖子さんとの声音の違いは、畑中さんは喜びを押さえないで、そのまま解放して歌っているよう聞こえることだろう。
逆に松田聖子さんの歌声は込み上げてくる喜びを懸命に抑えているように聞こえる。
溢れ出てくる喜びを必死で抑えているようだ。
そんな感じに聞こえてくる。
本当はそんなことないのだが・・・・・
私にすればそれがまた堪らないのである。

私は松田聖子さんの歌を、あらぬ妄想を抱いて聞いているのだが、でもそれも聞き方としては悪くもないのだろう。
誰にも迷惑をかけなければそれでいいと、私は思っている。
言い訳ではないが、外国の歌手はセクシーさをこれでもかとアッピールして歌っている。
挑発もいいところである。
セクシーでなければ、プロとして生きていけないのだろう。

最近のクラッシックの世界もそれが顕著である。
私はチェロの演奏が好きなので時々海外の映像を見るのだが、日本とは全く違う方法で演奏している。
衣装もそうだが、間接的に性を想像させるような方法で演奏している奏者も珍しくない。
クラッシクの世界も確実に変わってきているようだ。

日本の芸能界ではセクシーさを前面に出している歌手は少ないだろう。
プレスリーやトムジョーンズは、観客にセクシーさをアッピールするために、陰でいろいろな努力をしていたとの噂もある。
日本の芸能人がその様な小細工をしているのが知れたなら、ファンは確実に離れていくだろう。
日本人は直接的な腰振りダンスよりも、声音に性的なモノを感じて、それだけで満足してしまうのだ。
いや、腰振りダンスも捨てがたいといわれる人もいるのかも?

松田聖子さんの場合、腰振りダンスは似合わないような気もするが・・・・