7月17日、今日は祇園祭の前祭り巡行の日である。
私は烏丸御池に山鉾巡行を見に来ている。
梅雨も明け、御池通りの欅からは蝉しぐれが降りそそぐ。
もう夏だ。



前祭りだの、後祭りだのややこしい。
以前のように同じ日にすればいいのにと単純に思ってしまうが、どうなんだろう。
京都に住んでいる人間でも山鉾巡行を見ることはそれほど多くはない。
いつでも観られると考えているのだろう。
京都人が京都タワーに昇ったことがないのと同じである。
今更わざわざ昇りに行くほどでもないと考えているのだろうが、もったいない気もする。
それでは大阪人が通天閣に昇ったことがあるのかないのか気になる。
これも京都人と同じで今更と思っている人は多いだろうが、京都人ほど大阪人は屈折していないから、結構大阪人は通天閣に昇っているかも知れない。
ついでに東京人はどうなのか?
いや江戸っ子になるのか?
でも今の東京に純粋な江戸っ子がどれほどいるのだろうか?
きっと少ないだろう。
いたとしてもレアものだ。
では東京人といえる人たちはどれほどいるのか?
私の考えでは江戸が東京市になったころから住んでいる人たちである。
つまりに江戸が東京に改称され、慶応から明治元年になる頃までに東京に住んでいた人たちになる。
これも希少な人種になるだろう。
そう考えてみれば、東京人なんてどこにもいない幻の住民ということになってしまう。
一応東京に住んでいる人が東京人として、東京人は東京タワー上ったことがあるのだろうか?
スカイツリーではない。
やはり東京タワーなのだ。



きっと大勢いるだろう。
私もお上りさんとして昇ったことがある。
日本人は東京タワーが好きである。
ある面、戦後復興の象徴となっているのだろう。
何でも東京人は東京タワーが見える処に住むのが夢だそうだ。
あの高圧送電鉄塔を大きくしたような東京タワーを、わざわざ見たいのかという気もするが?
それに東京タワーのトラス構造に美を見出すのは難しい。
エッフェル塔と比べてみるとよく分かる。
田舎の山の上には、東京タワーとよく似たモノがいくらでも立っている。
まだ通天閣の形の方が独自性があるように思う。
そんな東京タワーでも、自宅で見られることが誇らしいのだろう。
東京タワーを見られることは成功した証なのだ。
自宅から東京タワーが見えることがステータスとなっている。
私も東京に住むようになれば同じような気持ちになるのかも知れない。
東京タワーと同じような構造の名古屋テレビ塔や、札幌テレビ塔があるが、やはり日本の首都にある東京タワーでないとダメなのだろう。
その気持ちも分からない訳でもない。
では京都タワーはどうか?
京都タワーは電波塔ではない。
東京タワーのように必要で作ったものではない。
京都の街に何かシンボル的なタワーを作りたかったのだろう。
それがあのローソクだ。
私は京都人ではないから1度だけ京都タワーに昇ったことがある。
それは私が田舎者だったからだ。
京都人は京都タワーを見て、あんな変なモノと思っている。
ある人は「早く消えて欲しい」と言っていた。
京都人全てではないが、京都タワーに否定的な考えの人が多いのは事実だ。
私もそう考えていたが、今ではその考えも薄れてしまった。
あのローソクとローソク立てに慣れてしまったようだ。
慣れとは恐ろしいモノだ。
建築家は建てた当初、タワーは灯台で、民家の瓦が波と表現していたが、五月の節句じゃあるまいし、瓦の波がどうのこうの言われてもピンとこない。
それに古都のど真ん中に灯台がいるのかという疑問にぶつかる。
灯台は海の道しるべである。
では、京都の街で迷子になる人のためにあの巨大なローソク灯台を作ったのか?
よく分からない話だ。
京都駅も同じだ。
あんな下品なモノと思っていたが今では慣れた。
だが今でも好きにはなれない。
だから京都人は京都タワーに対して、東京人が東京タワーに抱くような気持はない。
ひょっとしたら、他府県の人たちの方が京都タワーに思い入れがあるのかも知れない。



きっと京都タワーを見て、京都に来たと思う人が多いだろうから・・・
大阪人は通天閣が好きなのだろうか?
大阪は阪急線の摂津側と京阪線の河内側に大きく別れるから、一概に大阪人がどうのこうのといいにくい。
それでも本当の大阪文化の中心は船場であったはずだ。
本来船場の大阪弁は綺麗であった。
しかし吉本のお笑い芸能人たちが、昔からある大阪言葉を駆逐してしまった。
芸能人が面白いと思う河内弁と、何処とも知れない言葉を混ぜ合わせて、それを大阪弁と称して全国に振りまいたからだ。
東京のマスコミも船場言葉ではなく、河内弁を大阪弁として広めてしまった。
その方が大阪らしく面白いと思ったからだろう。
また通天閣を大阪の象徴として取り上げているマスコミは多い。
東京タワーと通天閣、この図は分かりやすい。
上品な言葉を使う東京都民と、劣った下品な言葉を使う大阪市民。
また立派な?東京タワーとちんけな通天閣。
分かりやすい構図だ。



東京のマスコミはよくこのような構図で、面白おかしく両都市をよく比較する。
とにかく大阪が笑いものに仕立て上げれているが、同じ近畿圏に住む私として納得できないモノがある。
東京人は大阪人を笑いものにして優越感を抱きたいのか?
私はそこまでする東京人のコンプレックスは何なのか?それが知りたい気もする。
それともそうした番組作りは視聴率がいいのか?
視聴者は何を求めているのか?
大阪以外の都道府県の人たちは、誰もが東京人になりたいのか?
田舎者は皆東京に住みたいのか?
それとも大阪を馬鹿にして何かの鬱憤を晴らしたいのか?
でも最近は埼玉県や千葉県も同じような扱いになっている。
救いは大阪人と同じように、埼玉も千葉も自虐キャラに持って行けるようになったことだろう。
昔ならそのようなことはできなかったはずだ。
もっと卑屈になっていただろう。
埼玉人も千葉人も、県人としてプライドが持てるようになったのだろう。
地方の人から何処から来たのですか?と聞かれた時に、東京の方から来ましたと言うのではなく、埼玉から来ましたと自信を持って言えばいいのだ。
自分たちが田舎者だからというコンプレックスが無くなりつつあるのだろう。
言葉もそうだ。
今はそうでもないけれど、少し前までは東京以外の人たちは言葉にコンプレックスをもっていた。
田舎の訛りがあるからだ。
だが大阪人は意外と大阪弁に劣等感を持っていない。
東京でも大阪弁を貫く人も多い。
自分たちの言葉に自信を持っている。
それが東京人には面白くない。
田舎者が東京に来て田舎言葉を喋るなど、ずうずうしいという気になる。
東京人にすればここは都だ。
都に来たのなら都言葉を使えとなる。
しかしそれは東京に住む人たちが、自分たちの田舎言葉を使えないのに、大阪人は当たり前のように東京で大阪弁を使っている。
それが面白くないのかも知れない。
これは大阪人に対する僻みでもある。
バラエティ番組で作られる大阪のイメージは、東京で作られたイメージである。
それも本当の東京人が作った大阪のイメージではない。
田舎から出てきた人の大阪のイメージなのだろう。
そこに偏りがある。
本当の大阪は違う。
東京も作られたイメージだし、京都もそうだ。
そんなイメージ信じる方が馬鹿だと思えばいいのだが、だが悲しいかな人間はそんなまやかしのイメージでも信じたいのだろう。
京都のイメージにも偏りがある。
ここでは多くは触れないが、京都には歴史があるようで実際はそうではない。
これも作られたイメージだ。
京都は老舗が多いというけれど、歴史のある店など一握りで、その他の店の歴史は意外と浅い。
住民もそうだ。
3代ぐら京都に住んでいる人は多いかも知れないが、それ以降になると案外少ない。
京都市の中心地は貸家が多い。
室町の大店や西陣の大店が今でも貸家を持っている。
最近はそれらが売られて、マンションが建てられだした。
昔からの住民が京都から追い立てられている。
それもこれも伝統産業が衰退したことに始まる。
いまはもうどこの地方都市と変わらないのが実情だ。
今京都ブランドでお金を儲けている連中は、魑魅魍魎の輩である。
なぜこうなったのか?
この怖い話は未だ誰も書かない。