3月15日、嵯峨清涼寺でお松明式が行われた。
私はさっそくスマホを片手に電車に乗り、片道15分ほどの距離にある嵯峨まで出かける。
清凉寺は嵯峨嵐山駅から歩いて15分ほどの処にある。
昔は草深い処だっただろうが、今は住宅地の中に埋まっているという感じだ。
今夜の清凉寺の参道は屋台も多く出ていて、明るく賑やかだ。
お釈迦さまも賑やかなお祭りを楽しんでいることだろう。
坂道を暫く歩くと、大きく立派な清凉寺の仁王門が見えてきた。



今日は2019年以来、4年ぶりのお松明式になる。
お松明式はお釈迦様が荼毘に付される様子を再現した行事と言われている。
高さ7メートルの松明を3本立て、その火の強弱で農作物の豊凶を占ったりもしている。
また境内の狂言堂では、嵯峨大念仏狂言が上演される。
この日だけは拝観料も、夜の狂言の部も無料である。
日頃、なぜこのように京都のお寺の拝観料は高いのだろうと思うが、
清凉寺のように良心的なお寺もある。
私はいつものように、靴を脱いで本堂に上がらせてもらう。
大涅槃図を見に行くのだ。
年に一度のお披露目である。
本堂に入って、左に側にその大きな涅槃図がある。
この涅槃図の大きさは縦、6メートル、横4メートルにも及ぶが、本堂が大きいためか、その大きさが実感できない。
大涅槃図は1700年(元禄13年)に描かれたものらしい。



こんな貴重な涅槃図を近くで見れるのはここだけだろう。
右側にはこれまた中国宋時代の16羅漢図が掲げられている。
しかし残念なことに、国宝である16羅漢図は本物は、東京、京都の博物館に収められているとのこと、私たちが見れるのは模写であるらしい。



それでもこれほど緻密な描写なら、模写でも本物と変わらぬ迫力がある。
思わず絵に引き込まれる。
次は何といっても桜の木で作ったご本尊だろう。
清凉寺の起源とも言うべきお釈迦様である。
国宝である釈迦如来立像は東大寺の僧、奝然(ちょうねん)が中国五台山を巡礼した後、(987年)に中国から持ち帰ったといわれている。
その後、奝然が亡くなり、弟子の盛算が遺志を継ぎ、釈迦如来立像を本尊と安置する清凉寺を建立した。
清凉寺が嵯峨釈迦堂と言われるのは、このご本尊あってのことだろう。



今から千年以上の仏像とは思えないほど傷みはなく、温和であり、厳かなお顔である。
中国から日本に渡り、その後、幾たびかの戦乱の中を潜ってきた釈迦如来
立像だ。
庶民の力がこの仏像を守り通したのだろう。
何とも凄い力である。
次は方丈だ。
本堂の奥の渡り廊下を渡る。



次も渡り廊下だ。
この先に方丈がある。



ここが清凉寺の方丈だ。
方丈とは、鴨長明の『方丈記』でもお分かりのように、四畳半のことである。



実際は四畳半よりも大きい部屋が多いが、作りは質素だ。
この部屋は写経をする部屋で、他の部屋には写経をする人が多くいた。



次は、そうだ、嵯峨大念仏狂言もスマホで撮ろう。
狂言堂の周りは見物人でいっぱいだ。



隅の方から近くに寄り何とか撮れた。
もうすぐお松明に火が付く時間だが、その前に護摩を焚いて夜空を焼く。
その火は松明の火より迫力があり、綺麗である。



いつ見ても凄い。



もうこれは護摩を焚いているとは言えない凄さだ。
火災、大火事のような迫力がある。



お松明に火が付く。



見ている私達の身体が熱い。



熱い!熱い!
危険だ!
火は生き物のように動き回る。
昔の人達にはこのお釈迦さんを荼毘にする火をどう見ていたのだろうか?
自分のことと考えたら、業火にも見えた人もいただろう。
仁王門にも、屋台にも、消防士が水をかけ始める。
今年のお松明式はどうなるかと思ったが、何とか無事に終わって良かった。
私がひやひやすることはないが、もし見物している人に被害があれば、このお松明式が今後どうなるか分からない。
今の世で、こんな都会のお寺の境内で、これほどの大がかりな火祭りは何処にもないだろう。
今後も事故のないようにと祈るばかりだ。
それにしてiPhoneのカメラは難しいことをせずに、簡単に何でも出来てしまう。
カメラと悪戦苦闘して時代は何だったのだろうか・・・・
私の家にはまだ使わぬままの35ミリフィルムとブローニーフィルムが残っったままだ。