小泉純一郎氏の家系にまつわる情報は沢山ある。
その中でも小泉家の成り立ちをつまびらかにしているのは、石井妙子さんの「日本の血脈」ではないだろうか。
この本は月間『文藝春秋』の2011年2月号~2012年10月号までの記事を、「現在の家系」として連載した作品を加筆し再編集したオリジナル版である。
その目次の中に「女系家族」小泉進次郎という章がある。
読んでみると小泉進次郎さんにスポットを当てたものではなく、小泉家の成り立ちに重きをおいたドキュメントであった。
興味深いので、このブログでは要約してお伝えする。



まず小泉純一郎氏の祖父「又次郎」氏が背中に入れ墨をしていたという噂話を聞いたことがあった人もいるだろう。
横須賀で人入れ家業だった父の後を継ぐために、又次郎氏は決意を示すために18、19の若さで背中一面から腕にかけて入れ墨を入れる。
鳶の親分と人入れや家業をしていた又次郎氏が昭和3年、64歳で逓信大臣に選ばれる。
この又次郎氏には子供がいなかったようで、芳江さんという女の子を養女としてもらう。
この芳江さんは日本女子大卒業後父の仕事を助けていたのだが、突然、鮫島純也という民政党の秘書と駆け落ちしてしまう。
これが純一郎氏の父と母で、お二人のなりそめである。
鮫島純也氏はその後小泉家に婿養子となって小泉家に入る。
純也氏は苦労人である。
鹿児島で生まれ、早くに両親をなくしたので家族は離散状態になっていた。
地元の百貨店で就職し、その後、大阪のガラス工場や神奈川の工場などで肉体労働を続け、ようやく同郷の代議士を頼り書生となる。
夜は日本大学の夜学に通い、昼は民政党の事務員となり、そこで小泉芳江さんと出会ったのだった。


その純也氏も又次郎氏の後を継いだが、入閣から5年後に急に亡くなってしまう。
イギリスにいた純一郎氏が急遽呼び戻され、純也氏の後継者になることが決まる。
父の死から4か月後の総選挙だったが、純一郎氏は落選してしまった。
これは小泉家にとって危機だった。
何としてでも純一郎氏を政治家にしなければ、家が立ちいかない。
そこで母である芳江さんが奮闘する。
自ら小泉家の養女ではなく、私は「小泉家の女中の子」だと告白したのである。
しかし「女中の子ではあるけれど、まぎれもなく又次郎氏の血を受け継ぐ娘なのだ」と主張した。
その後、昭和47年『小泉又次郎伝』が私家本として刊行される。
同年、選挙があり、落選から3年経って純一郎氏は初当選を果たす。
純一郎氏と宮本佳代子さんは見合いをする。
純一郎氏が青山学院の4年生だった佳代子さんに一目ぼれをしたのだった。
昭和53年1月、純一郎氏は佳代子さんと結婚する。
佳代子さんは22歳、純一郎氏は36歳。
その時、佳代子さんは身重だった。
結婚後、佳代子さんは小泉家の人々と共に暮らす。
そこには母の芳江さん、離婚後、実家に戻った40代半ばの道子、さらに純一郎の弟で秘書の正也氏とその妻、また独身で純一郎に寄り添い続ける信子もいた。
とにかく小泉家は大所帯で一つの家で生活していたらしい。
佳代子さんはエスエス製薬の社長令嬢である。


そんな深窓の令嬢がいきなり大所帯の家に嫁として入ってしまった。
佳代子さんはそれでも小泉家の嫁として、また純一郎氏の妻として健気に努力をしていた。
ここから「日本の血族」をそのまま引用させてもらう。
純也氏の甥、つまり純一郎氏の従弟の妻、井料容子さんが振り返る。
「佳代子さんは理性に富んだ素晴らしい女性だった。佳代子さんがお嫁に来て最初の選挙の時、『佳代子さん今日の集会で挨拶してね』と言ったら、『お姉さま、そんな・・・・わたくしなんて言ったらいいのでしょうか』と不安そうに涙をためていう。『小泉純一郎をよろしくでいいわよ』と言ったら、『わかりました』と言いながらも、もうしゃくり上げて泣いて、でもそんな佳代子さんが壇上に上がって涙をキラキラ流すと、それだけで大喝采だった」
婦人会でも佳代子さんは評判が良かったと語る。
「選挙の炊き出しをしていた時、台所でに玉ねぎの山があって、『これどうするんですか』って佳代子さんがいう。『刻むのよ』『全部ですか』『そうよ』『わたくしやります』といってね。『口を半開きにして刻めば涙が出ないわよ』と教えてあげたら、佳代子さんは言われた通り口を開けて刻み始めたの。
けれど涙が流れっぱなしで、周りにいた婦人会の人たちが『可哀そうで見ていられないわよ』って。私が『お料理は誰に習ったの?』と聞いたら、『はい、土井勝先生です』婦人会の人たちには大うけだった。『畏れ多いわね、そんなすごい人に手伝ってもらっちゃって』って。『料理は何種類ぐらいできるの、私は馬鹿だからおにぎりぐらいしかできないけど』って私が続けて聞いたら、『はい、わたくしは190種類』もう皆、大爆笑よ。『かわいいわね。素直で、いい娘さんじゃない』って。
佳代子さんは教えられられたことを、すぐに実行しょうとする行動力もあった。
どんどん政治家の政治家の妻らしくなって、挨拶も泣いてしり込みをしていたのが嘘のように上手になった。『孝太郎をおんぶして近所の公園を掃除してね、そうすると近所のご婦人たちとも仲良くなれるから』って頼んだら素直に聞いてくれて、すぐ初めてくれた。ご近所でも『お嫁さん、偉いわね』と評判になるほどだった。
しかし次第に佳代子は体調を崩していった。小泉家の人々との人間関係が原因だったと宮本家の関係者は語る。結婚に破れた道子と独身の信子という二人の姉、それに秘書として地元を仕切る弟の正也ら、一家の結束は固かった。純一郎が東京の議員宿舎から三春町に戻ってきた時、佳代子を置いて他全員で外食に行ってしまうこともある。純一郎はその時、家族に従う。
孝太郎に続いて3年後は次男の進次郎を出産したが、小泉家の周辺の住民、後援者の中には弱り切った佳代子を見て、自殺するのではないかと心配する声さえ上がった。見かねた後援会の幹部が、議員宿舎に佳代子を転居させ、小泉家の家族と純一郎夫婦を引き離した。横須賀から離れ、夫と子供だけの生活を送るようになり、心身が回復した佳代子の間に3男を宿した。だが、小泉家親族と佳代子の間に生まれた亀裂は、別居は逆に深くなってしまう。
宮本家の関係者が語る。「佳代子さんは実家に戻った時、純一郎さんは毎週訪れて、『君の悪いようにはしないから』と繰り返したそうです。でも、横須賀に帰って家族会議をすると向こうの家族に言い負かされてしまう。向こうの御姉弟は強硬に離婚を望んでいましたから。結局、堂々巡りになるんですね。純一郎さんは自分の意志だけでは決められなかった。最後は『妻と家族をとどちらを取るのか』と宮本家に迫られ、『僕は姉たちがいなくては選挙ができないから姉弟を取る』と言った。

後に総理になる人物の離婚原因がこの様なモノだったとは・・・・・
総理になっても姉達には頭が上がらなかったのだろうか?
小泉家は純一郎が総理になり、佳代子さんの存在が脅威と映った。
身重の妻を切り捨てたことは致命傷になると感じたのだろう。
弟の正也は週刊誌の取材でに答えて、「相手のことをあまり知らないまま、情熱だけでパーッと決めちゃった。だけど、あちらのことも何も知らされなくてね。結婚してから、あちらの親族が亡くなったというので葬式に行って、初めて創価学会員だということが分かった」と述べた。
しかし家族が創価学会んだっという事実は一切ない。
嘘の情報を報道を通して広めたのである。
あの飯島勲秘書も「外車をねだるような女だった。選挙区に入ろうとしないので自分が引導を渡した」と言っている。

ただの秘書の身分でありながら、何と自分の分を知らない発言をする人間だとただただ呆れる。
佳代子さんが小泉家を去った時、孝太郎氏は5歳前後、進次郎氏はまだ赤ん坊だった。
母の乳房を突然失った進次郎は、口さみしいのか夕方になると、小さな綿のハンカチを口に咥えて、絶対に離さなかった。
一方3男は父に会いたいと願った。だが父に拒絶された。
母は別れた子供二人に会うこともが許されず、父は別れた息子に会おうとはせず。歳月だけが流れた。
平成13年10月、芳江さんの葬儀に、かつて嫁だった佳代子さんが焼香するために、3男を連れてやってきた。
ところが秘書の飯島勲に見とがめられ、焼香の列から連れ出され、1時間以上別室に待機させられたとういう。




こんな男を内閣の参与にしたり、大学の理事や客員教授にする世の中はおかしい。
内閣の参与にしているのは今の岸田政権だ。
岸田総理の気が知れない。
今回石井妙子さんの本から、小泉家のことを書かせてもらったが、全てこの本が真実をついているとは思っていない。
それは石井妙子さんも同じだろう。
しかし未だに佳代子さんは何の反論もされていない。
子供たちの為を思い反論されていないのだ。
その反面、カエルに小便のような男が今ものさばっている。
この本で見えてくるのは、小泉家の人たちは佳代子さんの幸せも、また3人の子供たちの幸せを考えていなかったことだろう。
考えていたのは自分たちの損得勘定だけだった。
純一郎氏の姉や弟にすれば、人生の全てを純一郎氏に捧げて尽くしてきたという思いもあっただろう。
それを邪魔する人間は許せなかったのだろう。
でも佳代子さんを追い出したのは彼等だったのだが・・・・・
純一郎氏は総理にまで上り詰めたが、それで本当に幸せになれたのだろうか?
竹下登氏のように「我万死に値する」といった気持ちになっていないだろうか?
神輿に一度乗った人間はもう、もう神輿なしでは生きていけないのだろうか?政治家とは何とも業の深い職業だと思うばかりだ。
しかし純一郎氏の息子、進次郎氏もまた神輿に乗ってしまった・・・・