先を読む。
生きていく上で先を見、そして読むことは必要だ。
人よりも先んじて何かを成し遂げたいと思う気持ちは誰にでもある。
その時には先を予見し、それに応じた対処方法を考えなくてはならない。
また先の先を読んで、気に食わぬ誰かの鼻を明かしてやりたいと思っている人もいるだろう。
この世を生き抜くにはあらゆることを想定して先を読むことが必然になっている。
仕事でも、日常の些細なことでもそれは同じだ。
常に先を読み考えながら私たちは行動している。
これはアレで、これはコレで。
そしてソレはソレだ。
充分に備えができているか?
大丈夫かと気にかかることは多い。
それに伴い先の先のことがいつも頭の隅にある。
時間も無駄にしたくはないので、いつも時計を見ながら先のことを考える。
もう先のことばかりを考えることが習慣になっている。
次の次はと、仕事を自然と求めるようになっている。
次の仕事や予定がないと何か歯車が狂うような気持にもなる。
本当はゆっくりと休めばいいのだが、仕事や予定がないことにどうしても不安を覚えてしまう。
私も含め、それが殆どの人たちの生活だろう。
でもそれで本当に良いのだろうかという気持ちもある。
先を読むあまり、今の時間を大事にしていないのではないかと考える。
常に頭にあるのは先の予定や仕事のことだ。
吃音の人ならそれに倍して吃音の予期不安を心配しなければならない。
これでは心がやられる。
潰れる。
常に先のことばかりを考えて、今の自分を生きていない。
これでいいのかという気持ちも出てしまう。
でも今の世の中は先のことを常に考えていなければ、何事にも対処して生きていけないのだろう。



この先は、効率を考えてもっと先のことも考えなければならない時代になるのだろう。
でもこれで本当にいいのだろうかという気持ちがやっぱり出てくる。
またあまり先を予測し考えると将来に希望を持てなくなる。
本当は将来に淡い希望を抱くものだが、それはまだ若い時だ。
ある程度の年齢になると希望的観測はしなくなる。
そこに自分の実力を重ね合わせると大体の予測はできる。
リアルな先の自分の姿が見える。
でもげんなりしてはいけない。
将来など誰にも分からない。
予測など当てにならないのだ。
だから人生は捨てたものではないと思える。
先の先ばかりを見て悟った老人にようになってはいけない。
人生の勝敗など最後の最後まで分からないのだ。
私たちはガラケーやスマホを持ち出してから、心や、頭を空白にする時間を次第に無くしている。
人にもよるがこれも良くないのだろう。
何も考えずボーッとする時間が私はほしい。
私にはどうしても必要だ。
スマホは便利なモノではあるが、時には意に沿わない情報や伝達、報告をしてくる時もある。
この様な時は外に遊びに出ている時が多いので、ふいに連絡があると本当にガラケーやスマホが恨めしくなる。
世の中便利になって良いように思いがちだが、その分人間らしい生活が奪われていっている。
日常の何もかもから解放されたいと思ってもスマホのおかげで解放されない。
誰かと繋がっていたいたいという気持ちは私にもあるが、日女茶飯事繋がる必要もない。
ごくたまに繋がるからいいのだし、ありがたさも分かる。
しかしスマホのおかげなのか、自分の貴重な時間を分単位に刻んで生活しているのが現在の私達だ。
そのうちスマホ自体が私達人間の行動を管理する時代になるかも知れない。
いゃもうそうなっているのだろう。
なけなしのお金を払ってスマホを買ったはいいが、それが私を管理し、監視するようなモノだとは気づいていなかった。
予感はあったのだが先を読めていなかった。
でも便利さを知ったらもう後戻りはできない。
だが眼の疲れを癒すのと、心の平安を得るには寝る前にスマホを弄るのはよくない。
できるだけスマホから離れることが肝心だ。
また人生の大半をスマホの外面をしか見ていなかったと後で後悔しても遅い。
もっと先を読むことで私達のスマホの使い方も洗練されてくるかも知れない。
それはあくまで期待だが・・・・・